2012年9月15日土曜日

義に厚く、潔かった「松本重太郎」

「東の渋沢栄一、西の松本重太郎」とまで言われた「松本重太郎」。

幕末に独立し、西南戦争(1877)で軍服をつくるためのラシャを大量に売りさばき、巨額の利益をつかんだ男。彼が面白いのは、大成功を収めたときに「これはマグレだ」と本気で思っていたところだ。



以後、9つの私鉄に関わったことから、「日本の私鉄王」とも呼ばれるようになる。ここに一つの逸話がある。それは関西鉄道と大阪鉄道が合併しようとした時の話。

両者は金額面で折り合いがつかない。そこには10万円の差があった。そこで仲介にでた重太郎、「双方が5万円づつ譲歩しろ」と持ちかける。しかし、どちらも呑まない。

すると重太郎、ポンと10万円の小切手を両者の前に置いた。双方が慌てて「これは受け取れない」と言うも、重太郎は「お互いが譲らないのであれば、私が払う。このまま帰してしてまっては、仲介を引き受けた者として面目が立たない」と述べたという。



この義侠心は、のちに銀行家として「致命的な欠陥」ともなった。その最悪の結果が、第百三十銀行の破綻であった(1904)。

時は日露戦争の真っ只中、国内の金融不安を避けるために、日本政府はその再建に切れ者の銀行家・安田善次郎を差し向ける。

すると重太郎、「悉皆(しっかい)出します」と言って、全財産をそっくり差し出すや、そのまま実業界を去ってしまった。さらに、ついていた役職もすべて辞任(当時・61歳)。未練を微塵も感じさせない、なんと潔い責任の取り方であろうか。



こうして全財産を失い、借家が終(つい)の棲家となった重太郎、70歳で静かに息を引きとる。

葬儀においては、棺の後に従って、2kmも3kmも重太郎を慕う人々の列が連なっていたという。義に厚く、潔かったその人物の死は、多くの人々から惜しまれたのであった…。



出典:歴史街道 2012年 09月号
「松本重太郎と南海鉄道」

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