2012年10月20日土曜日

世界トップレベルの通信網。「敵艦ミユ」


濃霧の海に目を凝らして見えた、小さな「灯火」。

哨戒中だった「信濃丸」は、その追跡を始める。そして、夜が白み始めた頃だった、大小の艦隊が次々と海上に浮かび上がってきたのは。ロシア最強「バルチック艦隊」である。

信濃丸の発見した「灯火」は最後尾の病院船「アリョール」のものだった。全艦隊に灯火管制が命じられていた中、この病院船ばかりは戦時国際法で攻撃されないと安心していたのか、灯火をつけていた。それが、日本軍に幸いしたのだ。



時は日露戦争における日本海海戦のまさに前夜から夜明けにかけて。

パルチック艦隊はバシー海峡(台湾とフィリピンの間)を通過後、行方が分からなくなっており、いったいどの航路から日本を横切りウラジオストク港に入るのかが不鮮明となっていた。

宗谷海峡(樺太と北海道の間)を通るのか? それとも津軽海峡(北海道と青森の間)を抜けるのか? 予想通り、対馬海峡(朝鮮半島と九州の間)に姿を現すのか?



「そろそろ哨戒船に発見されても、おかしくないのだが…」

司令部には焦りが生まれていた。そんな中、総司令官・東郷平八郎はついに「28日になっても対馬海峡に現れなければ、津軽海峡方面に向かう」ことを決意した。

探しあぐねていたバルチック艦隊の小さな灯火を信濃丸が発見するのは、27日の深夜(午前2時45分)。それは日本艦隊が対馬海峡を離れようとしていたわずか一日前のことだった。こうして、運命の糸は辛うじて切れずにつながったである。



バルチック艦隊を発見した信濃丸は、即座に「敵艦ミユ」を意味する暗号電文を打った(27日午前5時5分)。それを「厳島」が受信し、東郷平八郎の乗る「三笠」へ転電。待望の電文を受け取った東郷は、即刻、日本海海戦へ向けて舵を切る。

参謀・秋山真之(さねゆき)は、大本営に打電するための電文に目を通すと、その最後に次の一文を加えさせた。

「本日、天気晴朗ナレドモ、浪(なみ)高シ」

名分として知られるこの電文は、27日午前5時15分に大本営へと打電された。バルチック艦隊発見の報からわずか10分、すべての準備は整ったのである。



これほど迅速に通信が行われたのは、参謀・秋山真之が上申して実現させていた「三六式無線電信機」のおかげであった。この電信機は世界トップレベルの通信力を誇っており、バルチック艦隊の発見報告をいち早く総司令官・東郷、そして参謀・秋山の元へともたらしたのだ。

また、日本軍は独自の軍用水底(海底)線を日本海に敷設しており、「無線・海底ケーブル・地上有線」を使った画期的な情報ネットワークが構築されていた。参謀・秋山の歴史的名文「本日、天気晴朗ナレド…」も、海底ケーブルを利用して送られたのである。



のちに参謀・秋山真之は、こう語っている。

「日本海海戦は最初の30分で勝負が決まった。しかし、その30分のために10年の準備がいる」

以後の結果だけを記せば、日本海海戦は日本海軍の大勝利、それは日露戦争全体の勝利に大きく貢献することとなる。





出典:歴史人 2012年 01月号
「皇国の興廃、この一戦にあり 日本海海戦でバルチック艦隊を殲滅す」

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