2012年11月24日土曜日

苛烈なる江戸の儒学者「柴野栗山」




「死する時はむしろ死するのみ。

 丈夫ひとたび郷を去りて親を辞せば、

 あに、学成るなくして、いたずらに帰る者あらんや」



江戸時代の儒学者「柴野栗山(しばの・りつざん)」の言葉。

幼少より病弱だったという栗山(りつざん)は、18歳のときに幕府の学問所「昌平黌(しょうへいこう)」に入学。しかしやはり、病気ばかりしていた。

そのため、周囲からは「もう故郷に帰ったらどうだ」とまで言われる始末。



「何を!」と思った栗山の吐いた言が冒頭の言葉。

「死ぬ時は死ぬだけだ。男たるものが一旦故郷を離れ、親に別れを告げたのならば、どうして学問が成る前に帰れようか!」



病の薬を買うために着物を質に入れてまで猛勉強を続けた栗山(りつざん)。

栗山をからかった同僚たちが学問所「昌平黌」のあまりの難解さに次々と離脱していく中、最後にただ一人残ったのが、この栗山だけだったという逸話も残る。



挫けそうになったときに、栗山がさすっていたという額の傷跡。

それは少年期に教えを受けた厳格な教育者「後藤芝山(ごとう・しざん)」に額を小突かれた傷跡だったという(芝山は漢文訓読の返り点で有名。後藤点もしくは芝山点)。

その傷は死ぬまで残ったと云われるが、それは恩師からの何よりの忘れ形見だったのかもしれない。



晩年の栗山(りつざん)はある時、何を思ったのか、自分の書物や文書をすべて焼き捨ててしまう。

「世の中にはたくさんの書が出回っているのだから、あえて自分の書いたものを残す必要はない」というのがその言い分だった。

若いころ、栗山はある陽明学者に感銘を受けている。その善兵衛という学者は、橋のたもとでみすぼらしい暮らしをしていた。聞けば、火事ですべてを失ったとのこと。その善兵衛が言うには、「すべてを失って万事休すと思った途端に、悔やむ心もなくなってしまった。この心を大切にすれば、人として大節ができ、利害に惑わされることもなくなる」ということであった。

なるほど、晩年に自らの書を焼き捨てた栗山の心にも、善兵衛のそれと相通じるものがあったのかもしれない…。




出典:致知2012年12月号
「儒者たちの系譜 柴野栗山」

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