2013年6月24日月曜日

信州に吹く「真田の風」



「いよいよ、その日が参ったな。源次郎(幸村)」

真田信之は一人、江戸屋敷の濡れ縁に座りながら、暁闇の西の空に向かって語りはじめた。



「お主のことだ。本日の戦では、我ら真田兵法の限りを尽くし、関東勢の荒肝をひしぐに相違あるまい」

時は慶長20年(1615)5月7日、大阪では夏の陣の最終決戦のときを迎えていた。



「赤備えに身を固め、白熊の兜で突進するお主は、徳川の者どもの目には、武田の大御屋形様(武田信玄)が蘇ったように映ろう。それは怖かろうな」

信之は一人、くすりと笑う。だが、すぐに表情が引き締まる。

「ことによると、大御所様(徳川家康)も無事では済まぬやも…」










関ヶ原の合戦直前、兄・真田信之と弟・真田幸村は敵味方に別れており、二人の進む道はすでに違っていた。

家康に従って会津征伐に向かう途中、上方での石田三成挙兵の報を受け、真田親子は「東軍(家康)につくか、西軍(三成)につくか」を話し合ったと云われる。世にいう「犬伏の別れ」。信之の結論は、弟・幸村と「袂を分かつ」というのもであった。

だが敵味方に別れてなお、双方の胸のうちには、若き日にともに仰いだ真田家の家紋、誇り高き「六文銭」の旗が翻っていた。










兄・信之と弟・幸村は、その性格がまるで違っていたとも云われる。

信之は幸村を「柔和で怒るようなことはない」と評している。幸村は人質生活が長かったからか、どこか人懐こいところがあり、その気質は豊臣秀吉に通ずるものがあったともいう。

一方の兄・信之は、長男でもあり後に家を守り信州・松代藩の礎を築いたことを考えても、現実的に筋を通す辛抱強さを備えていた。



元々、真田氏は小県郡の真田郷(現在・長野県上田市)における海野氏の一族。

その祖は、清和天皇の子「貞保親王」との説がある。眼を患ったという貞保親王は、当地の温泉で養生するうちに地元民と親しみ、「滋野天皇」と呼ばれるようになったと云われる。

その血を継ぐとされる真田家には、名門一族としての誇りがあった。



だが、信之・幸村の祖父である「真田幸隆」の時代に苦難は訪れる。真田氏は武田信虎(信玄の父)や豪族・村上義清に故郷・小県(ちいさがた)を追われてしまい、流浪を余儀なくされるのであった。

その一族滅亡の危機に遭って、祖父・幸隆はあえて武田家のふところに飛び込み、真田の地の奪還を果たす。それは名門一族の、土地に対する強い自負心がそうさせたのでもあった。



武田家にとって、真田は「外様」である。

それでも、幸隆の活躍奮闘は目覚ましく、武田信玄から厚い信頼を寄せられることになる。幸隆は「大義」のためには、敵であった武田家にさえ、その命を惜しむことがなかった。

それが真田家の「侠気」であり、孫の信之・幸村にまで受け継がれていくものでもある。ゆえに、その大義・侠気さえ失わなければ、兄・信之が徳川方、弟・幸村が豊臣方と敵味方に別れようとも、それは活躍の場が異なるだけのことであった。



豊臣方にいた幸村は、徳川方から「信濃一国を与えるから寝返るように」との誘いを受けたというが、幸村はそれに応じようとはしなかった。

それは徳川方の示す「利」は、真田家の「大義」とまったく相入れるものではなかったからなのだろう。



幸村は「大阪の陣」の決戦にあって、真田家の家紋である「六文銭」の旗を用いなかったと云われている。それは敵である徳川方にいる兄・信之に係累が及ぶことを恐れるためであった。

また、幸村が大阪城から突出した「真田丸」を築いたのは、真田伝来の戦法で自在に戦うためであると同時に、たとえ真田丸が陥落しても、大阪城に迷惑を及ぼさぬための配慮であった。










一方、徳川方の兄・信之は、弟・幸村が大阪の陣で暴れ回ったことで、当然、徳川方から厳しく睨まれる。当時は、ほんの些細な口実でも、容赦なく御家取り潰しになることがあった。

だが、細心なる信之は、幕府方に一切の隙を見せなかった。それは信之の類稀なる手腕であり、「必ず真田家を残す」という執念でもあった。



領地こそ失うことはなかったものの、大阪の陣から7年後、信之は先祖伝来の上田から「松代」への転封を命じられる。加増転封(13万石)とはいえ、真田ゆかりの地域と領民とから切り離されたのである。

真田家の武勇を恐れた将軍・徳川秀忠は、あまりに真田が地元民と繋がりの強いことに警戒したのである。秀忠は関ヶ原の合戦の折、上田に足止めされ戦に遅れるという大失態を演じているが、それは真田家と上田の領民が一丸となって、数倍の秀忠軍を翻弄したためであった。



新たな領地「松代藩」では、信之の次の藩主「信政」の時に、御家取り潰しの危機に瀕している。信政の急逝により、その跡目を巡り真田家には御家騒動が起こってしまったのである。

その危機を回避したのは、隠居していた信之であった。老いたとはいえ、見事に乱れた家臣団を一つに束ねてみせたのである。信之93歳。最後の大仕事。

その後、同年、信之はその役目を終えたかのように、この世を去った…。



信之の守った真田の血は、現在14代目を数え、眞田俊幸さんに受け継がれている。

俊幸さんが子供の頃に聞いた話に「殿様たる者」というものがあるという。それは真田家に長く伝わる話だった。



たとえば真田の殿様は、家臣の沸かす風呂に入り、その湯加減を聞かれた時には必ず「いい湯だ」と答えなければならない。熱かろうがぬるかろうがそうである。

というのも、もし殿様たる者が「熱い」だの「ぬるくてかなわん」などと口にしようものなら、湯を沸かした家臣の首が飛んでしまう。

「殿様たる者、まずは家臣を守ってやらなければならない」

それぐらい、真田家の城下では家臣や領民が思いやられていたのだという。そうした誠実で律儀な気風からは、藩祖である信之の人柄が偲ばれてもくる。



現在の松代・上田にまで伝わる「質実剛健の気風」

それは現代にも吹く、真田家の風である。

その風が、戦国時代、「六文銭」の旗を翻していたのであろう。













(了)






ソース:歴史街道2012年12月号
「真田信之と幸村  六文銭の誇りを貫く」

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