2013年6月27日木曜日

なぜ「ゼロ戦」と呼ばれたか?



「なぜゼロ戦と呼ばれたか、ですか?」

第二次世界大戦中、日本の新型戦闘機「ゼロ戦」に乗っていたという元海軍中尉の「伊藤寛次」。彼は話し始める。

「ゼロ戦が正式採用になった皇紀2,600年の末尾のゼロをつけたのですよ」

皇紀2,600年は、昭和15年、西暦1940年にあたる。



「ちなみに、その前年の皇紀2,599年に採用になった爆撃機は『九九艦上爆撃機』、その2年前に採用になった攻撃機は『九七艦上攻撃機』です。いずれも真珠湾攻撃の主力となりました」と、伊藤は語る。

零戦の正式名称は、「三菱零式艦上戦闘機」だそうである。







「零戦は素晴らしい飛行機でした。これは日本が真に世界に誇るべき戦闘機です」と、伊藤は誇らしげに話す。

「何より『格闘性能』がズバ抜けていました。凄いのは旋回と宙返りの能力です。ほかの戦闘機の半分ほどの半径で旋回できました。だから、格闘戦では絶対に負けないわけです」

「それに速度が速い。おそらく開戦当初は『世界最高速度』の飛行機だったのではないでしょうか。つまり、スピードがある上に小回りが利くのです」



本来、戦闘機において、「スピード」と「小回り」は相反するものだった。

格闘性能を高めるために小回りを重視すると、それだけ速度が落ちてしまう。逆に、速度を上げた分だけ、格闘性能は落ちる。

「しかし、零戦はこの相矛盾する2つの性能を併せ持った『魔法のような戦闘機』だったのです。堀越二郎と曽根嘉年という情熱に燃える2人の若い設計士の、血の滲むような努力がこれを可能にしたと言われています」










さらに、零戦には通常の「7.7mm機銃」に加えて、より強力な「20mm機銃」が搭載されていた。炸裂弾でもあった20mm機銃は、敵機に当たると爆発し、一発で相手を吹き飛ばすことができた。

「しかし、零戦の真に恐ろしい武器は、じつはそれではありませんでした」と伊藤は言う。



「航続距離がケタ外れだったことです」

「3,000kmを楽々と飛ぶのです。当時の戦闘機の航続距離は、だいたい数百kmでしたから、3,000kmというのがいかに凄い数字か想像がつくでしょう」



余談ながら、ドイツがイギリスを攻め落とすことができなかったのは、ドイツのメッサーシュミットという戦闘機が「致命的に航続距離が短かった」からだという。

「イギリス上空で、数分しか戦闘できなかったのです」と伊藤は言う。

それ以上に戦闘が長引けば、帰路ドーバー海峡を渡り切れずに、海の藻屑となってしまったのだそうだ。

「わずか、40kmのドーバー海峡の往復が苦しかったなんて…」



もし、ドイツが日本の零戦と同等の能力をもつ戦闘機をもっていたとしたら、「イギリス上空で、一時間以上は戦うことができただろう」と、伊藤は考えている。

「こんな仮定は馬鹿げていますが、もしドイツ空軍が零戦を持っていたら、イギリスは大変なことになっていたでしょう。完全にロンドン上空を制圧することができたはずです」







なぜ零戦には、そこまでの航続距離を持っていたのか?

「それは、零戦が『太平洋上で戦うことを要求された戦闘機』だったからです」と伊藤は言う。

「海の上では、不時着は死を意味します。だから、3,000kmもの長い距離を飛び続けることが必要だったのです。それにまた、広大な中国大陸で戦うことも想定されてもいました。中国大陸での不時着も、死を意味するということでは海の上と同じだったのです」



名馬は千里を走って、千里を帰るという。

「零戦こそ、まさに名馬でしたな」と伊藤はうなずく。










当時、工業国としては「欧米よりもはるかに劣る」と言われていた日本。

その日本が、いきなり世界最高水準の戦闘機を造ってしまった。卓越した格闘性能、高速、そして長大な航続距離。零戦はそのすべてを兼ね備えた「無敵の戦闘機」だった。

「さらに驚くことは、陸上機ではなく、狭い空母の甲鈑で発着できる『艦上機』ということです」と伊藤は言う。



最後に、伊藤はこう締めくくった。

「戦争の体験は、決して自慢できるものではありませんが、私は今でも、零戦に乗って大空を駆け巡ったことは、人生の誇りにしています。零戦は真に日本が誇るべきものだと思います」







(了)






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ソース:「永遠の0 (講談社文庫) 」百田尚樹

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