2013年7月11日木曜日

孟子の「放伐論」。2つの中心


孟子の「放伐(ほうばつ)論」というのがある。

それは、「家臣が主を弑してよいものか」という論であり、孟子はその正当性を認めている。



孟子いわく、「仁をだめにする者、この者を『賊』と呼び、義をだめにする者を『残』と呼びます。『残賊の者』はもはや君主ではなく、ただの一人の男です」

つまり、「悪王」はもはや「主ならず」ということで、「放伐」を正当としているのである。具体的に孟子は、殷の湯王が夏の桀王を追放し、周の武王が殷の紂王を討伐したことを正しいことと認めたのである。

孟子はこううそぶく。「紂(殷の紂王)という一人のただの男を武王が誅殺したとは聞いていますが、臣が君主を殺したとは聞いていません」








古代中国において、夏王朝から「世襲」となってしまったことが、時に「暴君」を出してしまう原因とも考えられており、ゆえに君主打倒を正当化する「放伐論」が起こってきたといわれている。

だが、その考え方はある意味危険であり、世を乱す因ともなりかねない。とくに、万世一系の天皇家を戴く日本ではそうした思想が危険視され、「孟子の書を乗せた中国の船は、日本に着く前に沈む」と言われていたそうだ。



たとえば、幕末の「吉田松陰」などは孟子の放伐論に激しく異を唱えている。

吉田松陰いわく、「君主と父親はその第一義である。わが君を愚として他国へ去るのは、わが父が頑愚として家を出て、隣家の翁を父とするようなものである」








儒教の教えは吉田松陰のそれよりは穏やかで、「父子天合」に対して「君臣義合」とある。もし父が間違った行いをした場合、子は「三たび諫めて聴かざれば、すなわち号泣してこれに従う」。だが君主に対して臣は「三たび諫めて聴かざれば、すなちこれを去る」とある。

つまり、父には絶対服従だが、君主には条件付きであり、時には去るという選択肢が残されている。だが、孟子の放伐論を認めるものではない。



第二次世界大戦末期、神風特攻隊というのは命を捨てて君に仕えるという「絶対服従」を強いたものであったが、これは「父親と君主」の関係同様、「家族と国家」の関係を考えさせるものである。

これに関して、島田虔次は「朱子学と陽明学」という書で、こう述べている。「儒教的世界は、いわば国家と家族との『2つの中心を有する楕円』である。修身斉家治国平天下は、この楕円をあくまで楕円たらしめようとする理想主義であって、それをいずれか一方の中心へ収斂させて円にしようとするのではない」

※「修身斉家治国平天下」と島田がいうのは、「礼記」大学にある言葉で、「まず自分の行いを正せば(修身)、家庭が整い(斉家)、そして国家が治まる(治国)。それが天下を平らかにするということである」という教えである。



つまり、父親と君主の中心点が同じでないように、家庭と国家のそれも異なると島田は言うのである。

それはいわば「本音と建前」の中心が一致していないようなものであり、もしそれを無理に同じとしてしまうと、まことにおかしなことにもなってしまうのだろう。カミカゼのそれのように…。






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