2013年9月17日火曜日

稽古と「無の境地」



たとえば、お茶や踊りのような芸事なら、どこまでやれば終わりという限度がないから、やればやるほど深くなって「無心の境地」になる。清水知恵さんというダンスの名手の方は「ある境地に入ると、自分が誰かに踊らされているような感じがします」とおっしゃっています。

こういう方に共通するのは「目的がない」ということです。何かの目的を持つと、その途端に価値が半減します。ただひたすらに稽古、訓練、修行に励む。すると、時機が至れば意識から解放されて「無の境地」になる。

私は若いときに射撃をやっていましたが、稽古にただひたすら打ち込んでいると「無の境地」になり、感覚が増幅されます。射撃というのは300m先にある1m幅の的を狙って撃つんですが、銃身の先(銃口)が0.1mmずれると1点下がるような感覚です(的は10等分されており、真ん中が10点、一番端が1点)。

ひたすらな稽古は、千利休の「稽古とは 一より習い十を知り 十よりかへる もとのその一」の句そのものの実践となり、意識は遠くなり「無の境地」になります。目的感、努力感もなく、ただ「無」に生きているという境地でしょうか。




話:井口潔
井口野間病院理事長、九州大学名誉教授

出典:致知2013年9月号
「やるべき仕事があれば年を取らない」


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