2014年11月4日火曜日

日本人のお月見 [小林秀雄]



〜話:小林秀雄〜




 知人からこんな話を聞いた。

 ある人が、京都の嵯峨で月見の宴をしていた。もっとも月見の宴というような大袈裟なものではなく、集まって一杯やったのが、たまたま十五夜の夕であったというような事だったらしい。平素、月見などには全く無関心な若い会社員たちが多く、そういう若い人らしく賑やかに酒盛りが始まったが、話の合い間に、誰かが山の方に目を向けると、これに釣られて誰かの目も山の方に向く。月を待つ想いの誰の心にもあるのが、いわず語らずのうちに通じ合っている。やがて、山の端に月が上ると、一座は、期せずしてお月見の気分に支配された。暫くの間、誰の目も月に吸寄せられ、誰も月の事しかいわない。

 ここまでは、当たり前な話である。ところが、この席に、たまたまスイスから来た客人が幾人かいた。彼等は驚いたのである。彼等には、一変したと思える一座の雰囲気(お月見の気分)が、どうしても理解出来なかった。そのうちの一人が、今夜の月には何か異変があるのか、と、茫然と月を眺めている隣りの日本人に、怪訝な顔附で質問したというのだが、その顔附が、いかにも面白かった、と知人は話した。

 スイスの人だって、無論、自然の美しさを知らぬわけはなかったろうし、日本にはお月見の習慣があると説明すれば、理解しない事もあるまい。しかし、そんな事は、みな大雑把な話であり、心の深みに這入って行くと、自然についての感じ方の、私たちとはどうしても違う質がある。これは口ではいえないものだし、またそれ故に、私たちは、いかにも日本人らしく自然を感じているについて平素は意識もしない。たまたまスイス人といっしょに月見をして、なるほどと自覚するが、この自覚もまた、一種の感じであって、はっきりした言葉にはならない。スイス人の怪訝な顔附が面白かったで済ますよりほかはない。



 この日本人同士でなければ、容易に通じ難い、自然の感じ方のニュアンスは、在来の日本の文化の姿に、注意すればどこにでも感じられる。特に、文学なり美術なりは、この細かな感じ方が基礎となって育って来た。意識的なものの考え方が変わっても、意識出来ぬものの感じ方は容易には変わらない。

 いってしまえば簡単な事のようだが、年齢を重ねてみて、私には、やっとその事が合点出来たように思う。何んの事はない、私たちに、自分たちの感受性の質を変える自由のないのは、皮膚の色を変える自由がないのとよく似たところがあると合点するのに、ずい分手間がかかった事になる。妙な事だ。

 お月見の晩に、伝統的な月の感じ方が、何処からともなく、ひょいと顔を出す。取るに足らぬ事ではない、私たちが確実に身体でつかんでいる文化とはそういうものだ。文化という生き物が、生き育って行く深い理由のうちには、計画的な飛躍や変異には、決して堪えられない何かが在るに違いない。








出典:小林秀雄「栗の樹 (講談社文芸文庫)」お月見




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