2014年10月20日月曜日

幸せの両面 [足立大進]



〜話:足立大進〜


 心の幸せについて、仏教ではこんな面白い話がある。


 昔、インドに非常に貧しい青年がいました。青年は、町外れの見るに耐えないあばら屋に住んでいました。不幸のどん底に居た青年は「幸せになりたい」と願いを立てます。「幸せになるには、まず美しい妻を娶りたい」、こう考えた青年は妻を迎えるために一心不乱に仕事をし、お金を稼ぎました。

 ところが、お金というものは追っかけて稼ごうとすると、なかなか溜まらないものです。そこで青年は一計を案じ、古道具屋で幸せの女神像を買って来てお祀りし、「幸せになるように」と一生懸命に拝んだ。ところが、二年経っても三年経っても、幸せになれません。青年はとうとう匙(さじ)を投げて、「もう諦めた。私は明日死のう」と考え、床に就きます。

 その日、夜もだいぶ深まった頃、トントンと戸を叩く音がします。「空耳かなぁ、それとも狐が狸かなぁ」と思いながら、ガタピシの戸を苦労して開けました。すると、そこには春の朧月のなか、花の精かと思うような美しい女性が立っています。青年が「何ですか?」と尋ねると、女性は「あなたのところへ伺ったんです」と言います。「お門(かど)違いではありませんか。私の家は、あなたが起こしになるようなところじゃありませんよ」と言うと、美しい女性はほほえみながら、「いいえ、始めからお宅を目指して参りました。私は、あなたが日ごろ祈り続けていらっしゃる幸せの女神でございます」と答えます。青年は心の中で、やったーと喜び、「どうぞどうぞ」と女性を招き入れました。

 すると、幸せの女神の後ろからもう一人、別の女性がついてきます。「お伴がいらっしゃるんですか」と青年が尋ねると、女神は「妹と一緒に参りました」と言います。女神さま一人でも充分なのに、二人です。青年は大喜びで、現代であればガッツポーズをしながら、「ささ、どうぞどうぞ」と言って、二人を招き入れました。


 さて、行灯(あんどん)に火を入れて、二人の顔を見てみますと、姉さんのほうはとびっきり美しい。しかし、妹を見てびっくりしました。醜女(しこめ)と言いますが、言いようもないほど醜い女性でした。「本当に妹さんなんですか」と訊くと、女神は「確かに実の妹でございます。不幸の女神で黒闇女(こくあんにょ)、黒耳(こくに)と申します」と言います。

 青年は、幸せの女神はいいけれど、不幸の女神は困ると考え、「お姉さんだけ残っていただいて、妹さんはお帰りくださいませんか」とお願いした。そうしましたら、姉さんは「それは無理な注文です。私たちはいつも二人一緒でございます。二人一緒に置いて頂けないなら、帰らせていただきます」と言います。結局、青年の家には、吉祥女(きっしょうにょ)という幸せの女神と、黒闇女(こくあんにょ)という不幸せの女神が二人一緒に居ることになりました。


 私たちが日常生活の中で幸せだと感じているときも、必ず反対のものがそこにくっついています。幸せと不幸せは背中合わせです。すべての物事に、ただ一面ということはありません。常に相対立するものが存在する。一見、幸せそうに見える人にも、何かしら悲しみや苦労があるのです。どちらが良い悪いではなく、一面にとらわれず、両面を見ることこそ大切なのです。







出典:『即今只今』足立大進



2014年10月19日日曜日

雪山童子と諸行無常 [足立大進]


〜話:足立大進〜


 お釈迦さまがこの世にお生まれになるよりもずっと前、前世で「雪山童子(せつせんどうじ)」だった頃のお話です。

 雪山童子が山の中でひとり悶々と悩み、修行をなさっていました。そこへ帝釈さまが、羅刹(鬼)に姿を変えて現れます。雪山童子があんまり苦しんでいるので、ちょっと助けようと「諸行無常、是生滅法」とお唱えになりました。それを聞いた雪山童子は「なんと素晴らしい言葉だ」とハッとします。

 ところが、目を開いて見回してみても、あたりには誰も居ません。「今のは誰のお声だろう」と思っているところへ羅刹が現れた。「今のお声は、あなたさまでしょうか」と雪山童子が尋ねると、羅刹は「そうだ」と答えます。そこで「その続きがあれば、ぜひ聞かせて下さい」とお願いすると、羅刹はこう言います。「それどころじゃない。私はここ数日、何も食べていない。飢えと渇きで苦しんでいる。私は生きた人間の肉を食いたいのだ。飲みたいのは人間の血だ」。

 雪山童子は覚悟を決めて「続きの半偈(残りの句)をお説きいただけるならば、私の身体を差し出しましょう」と約束します。そこでようやく、羅刹に化けた帝釈さまは「生滅々已、寂滅為楽」と残りの二句をお唱えになります。それを聞いた雪山童子は、その言葉を後の世の人のために、周りの石や壁、木や道に石で書き留めました。手当たりしだいに書きつけたあと、「これでもう大丈夫」と木に登り、羅刹に食われるために身を投じられます。

 すると帝釈さまは、羅刹の姿から帝釈天に戻り、空中で雪山童子の身体を受け止めて、地上に安置し、礼拝をなさいました。



「諸行無常」

諸行は無常である。諸行というのは迷った心の働きを言います。「この世の中の一切のこと」と申し上げてもいいでしょう。あなたの心の迷いも、この世の中の一切のこともすべて移り変わるものだ。

「是生滅法」

是(これ)は生滅の法であるからである。生まれてきたものは消えていく。この世のすべては移り変わる。これが生滅の法である。

「生滅々已、寂滅為楽」

その生滅の法を滅し已(おわ)ったならば(そこを離れたならば)、寂滅をもって楽と為す。寂滅とは悟りの世界、無事の世界を指します。そこが楽である、お浄土である。と、こういう意味です。



 昔はお葬式で「野辺(のべ)の送り」というものがありました。私が田舎の寺に小僧に行った頃は、まだ火葬がそれほど主流ではなく、ほとんどが土葬でした。土葬の際は、棺桶を担いでお墓まで持って行きます。これが「野辺の送り」です。

 野辺の送りのいちばん先頭は松明(たいまつ)や鍬(くわ)を持って歩きます。その次に、四人の人が竹にぶら下げた白い旗を持って歩きます。これを四旗(しはた)と言います。その旗、それぞれに書いてある言葉が「諸行無常(しょぎょうむじょう)」「是生滅法(ぜしょうめっぽう)」「生滅々已(しょうめつめつい)」「寂滅為楽(じゃくめついらく)」という四つの句です。



2014年10月18日土曜日

仏教の「同時」 [足立大進]


〜話:足立大進〜


 幼い子供たちが庭で遊んでいた。その中の一人が急に転んで、わぁーんと泣き出した。見ていると、一人の女の子がそばに駆寄った。

 さて、女の子はどうするのだろう。こんな場合、二つのやり方が考えられます。一つは、黙って起こしてやる。もう一つは「さあ、起きなさい」と励ましてやる。このどっちであろうかと眺めていたら、意外にも女の子は、泣きじゃくっている子のそばにゴロンと転んだ。そして、泣き虫の顔を見て、ニッコリ笑いました。すると、泣いている男の子も、目にいっぱい涙をためたまま笑った。そこで女の子が「起きようか」と言うと、男の子は「うん」とうなずいて、そのまま起き上がった。よく晴れた日の、ほほえましい出来事でした。

 私もそうですが、子供を前にすると、つい上から見て、手を貸して起こしてやろうと思います。しかしこの小さな女の子は、泣いている男の子のそばに転んでニッコリ笑った。転んで泣き止まぬ子供のそばに自分も転んで、相手と同じ世界で「起きようか」と誘う。相手との苦しみの共感であり、相手と共同の場に生きる。仏教では「同時」と言う。人の苦しみや悲しみを、まったく同じように共感することはできませんが、少しでも同じ世界に近づく努力はできるのです。






出典:『即今只今』足立大進