2015年8月17日月曜日

「ゴム人形」から「非常時外相」へ [内田康哉]



〜話:阿部真之介『非常時十人男』〜


内田康哉


内田さんと正義外交と


 日本の国際連盟脱退が、正式に決定される日、昭和八年三月二十七日のあの歴史的な臨時枢密院御前会議が、全日本国民の緊張裡に、宮中東溜間で開かれる前の晩、外務大臣・内田康哉さんはしみじみと所懐の一端を語った。

「余は満州事変の中途から外務大臣に就任した。その以前には満鉄総裁として事変に関係していたのだから、ここに日本がいよいよ連盟を脱退するに際し、深く深く重大なる責任を痛感する。しかし余の責任と国家の問題はむしろ今後にある。余は全力を尽くして来たるべき何局に死をもってあたる決心だ。連盟脱退は正義外交当然の結果として帰着するところに帰着したまだ。正義外交ー策謀や小手先戦術を弄するのではなく、国民大衆の与論とともに命を鴻毛の軽きに比して一路邁進するのが余の信条である」

 なんという力強い自信に満ちた言葉ではないか。内田さんが国民歓呼の嵐を浴びながら外相に就任して以来、危機を孕んだ非常時日本丸の船長として幾多の難局に遭遇しながらも、毫も国威を失墜せずますます帝国の面目を中外に発揮してきた。鳩のようなあの優しかった目は、祖国愛に燃えて緊張に充血し、全世界を相手に正義一点張りの奮闘。そしてついに最後の勝利ー国際連盟をまったく無力な空虚な機関に変質してしまったわけだ。米国大統領なども日本の底力の強さに驚嘆し、連盟の無気力無方針にあきれて、

「国際連盟は日本によって全くその正体を暴露してしまった。連盟は世界平和確保の実力があるのでなく、欧州の内紛を勝手気ままに饒舌するグループに過ぎない」

と言っている。傲慢な米大統領にかぶとを脱がせ、ついにこの言葉を吐かせるに至ったものはまったく内田外相の力だ。内田さんは日本の外交史上に空前の功績を残した偉大な歴史的存在であるばかりでなく、非常時日本の檜舞台に輝く立役者だ。

 内田さんは綽名(あだな)をゴム人形と言われているが、いまや平和のゴム人形は国難に硬化して剛鉄製の人形に、否、国民大衆の熱烈なる支持と与論の空気を充満して空高く上がったアドバルーンだ。全世界の眼という眼がアドバルーンのかすかな動きさえも見逃すまいと、驚異の瞳を輝かしている。



軍服を着た外交官


 ありし日の内田康哉伯、ゴム人形とか後入斎とかいうニックネームで、外交官としてもあまりパッとした色彩のなかった内田さんは、非常時の今日「武装せざる将軍」とか「軍服を着た外交官」と賛美の異名で呼ばれている。それは内田さんが非常時斎藤内閣の外務大臣に迎えられた時からで、直情径行正義心に強い内田さんの人間としての先天的な性格が時局にアピールしたためでもあり、この性格を国民が支持鞭撻してよくこの本領を発揮させたためでもある。

 内田さんのこうした一本気を代表する面白い逸話がある。それはずっと昔、日露の風雲がようやく告げつつあった明治三十六年の頃だった。当時外務大臣であった内田さんが、一夜築地の瓢屋(ひさごや)で飲んでいると、隣りの部屋で大勢の女どもに取り巻かれながら、陽気に馬鹿騒ぎをしている一座がある。はじめのほどは我慢していたが、こっちは大事な国事を論じて、露国を撃つか、打たぬかの大議論の最中だ。人の憂いも知らないで、今日この頃どこの馬の骨か知らないが底抜けのドンチャン騒ぎをしているとは怪しからん、と思うと内田さん持ち前の性格ムラムラと癇癪玉が膨れてきた。

「騒々しいぞ、静かにしろ!」

 ついに爆発、大喝一声、隣り座敷にむかって怒鳴りつけた。すると響きの声に応ずるがごとく、

「なにが騒々しい、そちらこそ静かにしたらどうだ、馬鹿ッ」

 老人の声だ。それから老人の声がアハハハと高笑いになって、女どもの黄色い声が爆発した。内田君もう我慢できない。それにだいぶ酒も回っている。やにわに「何をッ」と立ち上がった。そばでお銚子を持っていた内儀が、内田さんのただならぬ気色にびっくりしてとめた。

「あなた、お隣りは伊藤さんですよ。侯爵ですよ。およしなさい」

 それがかえって内田さんの癇に障った。純真無垢、年が若くて直情の彼、

「何ッ、伊藤だ。侯爵だッ、侯爵もクソもあるものか、国家重大の秋(とき)をどう考えている、そんなドンチャン騒ぎをしてもいい時か、莫迦ッ、静かにしろッ、静かに」

 内田君は伊藤博文の弱腰外交に憤慨していた矢先だから、酒の勢いにかねての憤懣も手伝って、わざと聞こえよがしに大声で怒鳴った。伊藤博文は書生流の人だから、無論黙っていない。声とともにづかづかと襖を開けて来た。内田君を見下ろしながら、

「内田ッ、いま怒鳴ったのはお前か、おれの前でもう一度言ってみろ!」

 へこたれると思いの外、内田君は昂然と肩を聳やかしつつ、

「侯爵あんたは、ここでこそ大きな顔をしているが、あの弱腰外交はなんです。あんたのような弱腰は、もっと静かにするもんでしょう。静かになさい」

とつけつけやったものだ。伊藤博文怒るまいことか、真っ赤になって、

「なにが弱腰だ、若僧のくせに生意気なことを言うな」

 途端、手が伸びた。伊藤さんの手は内田君の頬っぺたをビシリと撲りつけた。すると内田君も承知せず、立ち上がって俄然武者ぶりつき、取っ組み撲り合い、杯盤狼藉の乱闘を演じたわけだ。



 翌朝、酔いが醒めてから、いくら酒が手伝ったとは言いながら、時めく元老を撲ったのだから、どう考えても少しやり過ぎたと思って、さっそく外相の小村寿太郎のところへ身の仕末の相談に行ったところ、

「ナニ、そこが伊藤さんの好(よ)いところだ。まあ黙ってほったらかしておけ、心配せんでもいいことぢゃ」

と言う。果たして伊藤さんからは、なんの文句も来なかった。



 ワシントン会議のときも内田さんは外務大臣の要職にあったが、そのときアメリカ大使は幣原男だった。当時、東京ワシントン間の政府の暗号電信が、アメリカ国務省の諜報部員の手で秘かに傍受され解読されていたことは、東日発行のヤードレー著『米国の機密室』などに暴露されているが、その頃ワシントン会議では各国とも莫大な宣伝費を使って、盛んに暗躍していたので、内田さんは幣原大使にむかって公用電報で、

「各国とも盛んに金を使って、宣伝をやっているようだが、日本でも対抗上やる必要がないか」

と問い合わせると、幣原大使から

「金を使って空宣伝をやってみたところで、本当の国策遂行にはいっこう役に立ちそうにも思われない。奇手を弄して一時の利をねらうよりも、正々堂々たる方針で真っ向から進んだほうが、大局から見て有利の策と思う」

と変電が来た。内田さんは折り返し

「貴見と卑見はまったく同じだ。あくまでこの正々堂々たる態度でゆくことにしよう」

といってやった。この往復電信がそっくりそのまま「機密室」の手で盗読された。その結果、アメリカ政府は「日本人というものは正直なものだ」という印象を強くし、とくに内田外相と幣原大使に対し深い信用を抱くようになったという。こうした真っ正直さが、こんどの国際連盟紛糾の際にも、内田外相が外務大臣である日本政府の信用を、大いに助けたことは疑いない。



満州事変と対軍部関係


 内田さんと満州との関係はかなりに深い。しかし初めから内田康哉自身、満州問題その他の国難外交に最も適した手腕を持っていたのではなく、非常時の日本のあわただしい情勢と、国民大衆の燃ゆるがごとき自主外交確立への要望が、内田さんをすっかり非常時外相たるべき意識に転換させたのだ。

 満州事変突発の当座は、さすがの内田さんもあまりの不意打ちに全然見当がつかなかったらしい。多門師団が長駆ハルピン攻撃に移ろうとした際、内田さんは対部では「内田は駄目だ、性根を叩き直してやらねばならん」と猛烈な反内田熱が巻き起こったくらいだ。このため軍部と満鉄との関係がすっかり疎隔してしまったが、内田さん根が明敏見通しの立派に利く人だったので、満州事変の本質について、わずか二週間ばかりの間にすっかり見解を訂正し、新しい事態に応ずる確固たる目算と正しい計画を立派に立てた。それから後は軍部との関係も円滑になり、さらに政府を動かして新政策の樹立に画策するなどで「満鉄に内田あり、なお老いず」の声が油然として朝野に湧き起こったのである。

 内田康哉伯が外相に就任、晴れの親任式に臨むべく東京駅についたのは昭和七年七月五日、ちょうど国際連盟から派遣されたリットン卿以下の調査団が入京した一日あとだった。認識不足と誤謬欠陥の目をもった調査団と、世界の誤解から日本の正しい態度を闡明(せんめい)すべく嵐のごとき拍手に迎えられて登場した内田さん。思えばこの両日の東京こそは、世界のあらゆる眼を集めた焦点だったのだ。内田さんは親任式後、見るからに悲壮そのものといった面持ちで、国民にむかって決意を語った。

「満州事変以来、わが国は不幸にも各国から誤解されている。わが国の行動は明白なる自衛手段であって満州問題の複雑性と緊密性とが、世界に正しく理解されないのは残念である。わが国の外交方針はなんら変更する必要がない。依然として正義に立脚して堂々主張すべきを主張するにすぎぬ」

 国民はこの言葉を聞いて、内田さんを「非常時日本の非常時外相」と呼んだ。とくに誰が叫びはじめたともなしに非常時外相と呼ばれるところに、国民の新外相に対する期待が大きかった。非常時、全世界の誤解と猜疑の冷たい眼(まなこ)の中に孤立する日本を、永遠不動の確固たる基礎に安定せしむべく、内田さんのまったく献身的な活動が開始されたのである。

 従来の霞ヶ関外交、順調な時代に処する連盟中心主義の諒解と同情に阿諛するその日暮しの外交。それが定石外交として長い間、日本の外交の根幹をなしていたものだが、支那のように無軌道式な出鱈目(でたらめ)な国を相手にする場合は、何の権威もない外交を根底から覆して、自主的な東洋モンロー主義を高唱するのが、内田さんの第一の仕事だった。腰の弱い何事も事なかれ第一の霞ヶ関外交にひどい憤懣を感じていた国民は、果然拍手と喝采の旋風を巻き起こした。決断の早い、意思の強い、合理的な、押しの太い内田さんの外交ぶりは、早くも百パーセントの信頼を獲得した。

 内田さんと支那との関係を見ると、原敬氏の寵児として清国公使となり、明治三十八年には小村全権大使とともに満州善後協定を締結して、今日の満州の礎石を据えている。若槻内閣のとき、満鉄総裁として奮起を促され、外務大臣たること今度で四度だ。斎藤首相が組閣以来、外相の椅子を内田伯に予定して今日まで待っていたのもむべなるかなである。



内田外交、第一の偉業は


 新外相内田さんの、第一偉業は、希望と光明に燃えて独立した新興満州国に対し、連盟各国へ先手を打っていち早くも承認したことだ。内田さんは満州即時承認の急先鋒である。条約はふみにじる、既得権は侵害する、排日排貨を高唱して故意に喧嘩を売る国際ギャング「支那」を相手にしていたのでは、まるで正義に立脚したわが国の行動も、豚に羽布団を被(かむ)せるようなものだ。正しい理想の下に生まれた満州国を速やかに承認して、和平の礎石を固くするのが世界各国のために望ましい、というのが内田さんの持論である。熱烈なる和平を翹望(ぎょうぼう)するがゆえの武力行使、砲煙が消え、銃剣の叫喚がなくなった後に見えるものは、平和を確保された満州でなければならぬ。というのが内田さんの理想である。

 この点では内田伯は満鉄総裁時代から、しばしば満州国首脳部と会見して厳然たる信念を固めていたのである。外交総長の謝介石氏と会見した折にも、「満州国の承認問題は深甚なる考慮をはらうと約束した」と自身公言した。また内田伯が満州問題に関する限りは、軍部とまったく同一意見であったから、閣内においても軍部とまったく一身同体、協力一致して適切なる功果をあげた。



 松岡、長岡、佐藤三代表の寿府(ジュネーブ)派遣、わけても首席全権たる松岡代表は、まったく内田外相の銓衡(せんこう)によるものである。松岡洋右氏は語学の点において、頭脳の点において、鮮やかなる外交手腕において、現代日本が持ちうる最上級の人物だ。

 堅く結ばれた内田松岡の協力的な奮闘は、世界各国の新聞紙に大々的に報道されたが、十一月二十日の国際連盟理事会が近づくにつれ、内田さんは全精力を傾けつくして国務に精励、来る日も来る日も朝から晩まで着電、対策、訓電、会議の繰り返しで、内田さんにはまったく日曜も休日もなかった。朝早く自宅を出て、外務省に直行、省内の協議から閣議に列席。軍部との打ち合わせなど、あの丸々と肥った内田さんも外相就任以来めっきり目方を減らした。そのほか激務を割いては、わざわざマイクロフォンの前に立ち、声を嗄らして国民の奮起を促すなど、まったく血みどろの奮戦ぶりが連続した。無論、内田さんの手元には連日「進め内田将軍」「祖国の護り神内田外相」といった感謝と激励の手紙が山積した。

 かくて連盟中心の軟弱外交がすっかり跡を断ち、包容性と弾力性に富んだ自主的な日本外交が、内田さんの燃ゆるがごとき努力によって樹立されたわけだ。世間では松岡全権の奮闘ばかり見て、松岡を声援し指導し天晴れ国際舞台の花形役者たらしめた内田さんの涙ぐましい苦心を忘れているものもあるが、松岡全権の輝かしい名声の大半は、まったく内田さんの断固たる決心に負うものが多い。

 内田さんが寝食を忘れ、一意報国の念に燃えて献身的な努力をはじめたのは、例の十九国委員会善後のころからだ。委員会は十二月十五日決議案を起草し、日支両国に内示して同意を得ようとしたが、草案はリットン報告書第九章第十章をそのまま鵜呑みにした、すなわち満州国独立を否認せんとする指導原理を高調したものであり、帝国政府の断じて受諾しえないものであるから、内田さんは全権宛に断固たる訓電を発して、帝国の決意をほのめかしたが、その要旨は

「草案は満州国の現実を無視したもので、受諾はできない。帝国は第三国の介入を排除して紛争はあくまで日支直接交渉の方針だ。連盟に対し何らの責任なき米露招請は最後まで反対する。特に理由書末尾において『満州における現政権の維持および承認は問題の解決と認むるを得ず』との見解は帝国最高国策と顕然相反するものだから、かくの如き断案は抹殺せられなければならない」

というのである。支那の主張とは無論正面衝突だ。だが内田さんは徒らに戦いを好む人ではない。平和を熱愛する人であるから、日支妥協に奔走していた英国の請いを容れ、一月四日、内田さんは駐日英大使リンドレー氏と快く会見したが、やはり握手するわけにはいかず、一月九日、内田外相は定例閣議で

「英国大使が訪ねて来て、米露の招聘は断念するし、満州における現政権の維持ならびに承認は問題の解決に非ずという句は削除するから、なんとか打開の 途(みち)を発見したいと頼みに来たが、私は日本帝国の態度は確定的のもので一歩も譲歩の余地がないから拒絶した」

と報告している。



リットン報告と内田さんの信念


 ついでドラモンド事務総長と杉村事務次官とが、再三会見して作った共同試案は、よほど日本の主張に接近したものだが、内田さんはこれをもってなお国家百年の大計を樹立するものでないと認め、種々修正の指令を発したが、十九ヶ国委員会は不遜にも日本の修正要求を顧みず、一切の調停手段に見切りをつけて高圧的に第十五条四項を適用する形勢だ。こうした連盟の急迫せる風雲に鑑み、松岡首席全権から請訓がやって来たので、内田さんはこれくらいに屁こたれてどうなるものかと二十日早朝、左のごとき緊急回訓を発した。

一、非連盟国の削除は絶対的条件だ。

一、代表部は政府の修正要求に邁進せよ。

一、修正はまず満州の独立を否認するがごとき一切の字句の削除、リットン報告書第九章のごとき帝国の立場を不利に陥る条項の抹殺。

一、満州問題に関するかぎり、政府の態度と決意は確固不動のものだから決して事態を悲観するな、悠容たる心境をもって局面にあたり万全の策を期せ。


 ところが十九国委員会は、わが修正案を拒絶し、連盟規約第十五条第四項に移ることとし、ドラモンド総長にその準備を命じ、委員会は、和協失敗の報告とともに、総会に提出する勧告案作成に着手した。こうした決議はわが軍部を極度に憤慨させたし、陸軍当局では非公式に

「最悪の場合に際し、連盟脱退もとより恐るることではない」

といよいよ決意を固め、内田さんも脱退は毫も恐れぬ、十九ヶ国委員会はたとえ和平的努力を放棄しても、われらは連盟の蒙を啓き、その謬見を修正するため最後まで努力を継続すると、危機に臨んであくまで従容、天晴れ英雄としての気概を示していた。



 かくて連盟の雲行きは、最初予定されていた険悪な途(みち)を進んでいった。連盟はあくまで日本の主張をふみにじり、極東の平和を撹乱しようとするが、内田外相がかの臨時議会でやった焦土外交の決意は依然変わらなかった。とくに一月二十一日第六十四回議会でやった内田さんの演説は、軟弱外交から確固たる自主的外交に移り極東モンロー主義を高唱せるものとして有名であるが、同時に内田さんの全幅的な外交方針を吐露したものである。すなわち内田さんの非常時日本に対する外交イデオロギーの表現ともみるべきもので、その大要を示すと、

一、日満議定書 満州国に対する脅威は同時に日本の脅威である。このため日満議定書に調印し、共同して国家の防衛にあたる。東洋平和の礎石はここから築かれるものだ。

一、東洋平和保全 満州国は健全な発達を遂げている。兵匪は漸次壊滅し、通商貿易も次第に盛んとなっていることは、帝国の見解と行動が少しも誤らなかったことを証明するものだ。支那もこの点を理解し、日満支三国が相寄り相助けてこそ、はじめて東洋の和平が保全されるものと思う。

一、連盟と日本 連盟には帝国政府は誠実に協力し世界平和のための努力を惜しむものでない。ただ連盟が事態を正視せず、欧州の先例や過去の事情に基づき、規約を形式的に適用せんとするのは、かえって紛糾を拡大し、連盟の権威を傷つくるもので、世界平和のためまことに遺憾のことと思う。

一、日蘇不侵略条約 この問題については、幾多の議論が岐(わか)れているので、現存条約以外改めて不可侵条約の商議締結を行うには、時機いまだ熟しない。しかし日本はソヴィエトに対しいささかも侵略の意図があるものではない。

一、一般軍縮会議 軍縮は世界最大の平和事業で、政府は熱誠なる寄与強力に努力することは、終始変わりない、政府は世界海軍軍備に対し重大なる縮減をもたらすべき提案を、進んで会議に提出したのは、まったくこの目的に外ならない。

一、帝国外交の根本義 帝国外交の根本義は東洋の平和ひいては世界平和の確保に存することは多言を要しない。帝国は世界のいずこに対しても領土的野心を持っていない。また世界のいずことも事を構えんとするものではない。帝国の企図するところは国際正義に基づき、帝国の生命線を確保するとともに、その隣接諸邦と協力提携して、東洋の康安を維持し、もって世界平和に貢献せんとするものである。しかして東洋における権威と実力とをもって右目的達成に貢献せんとするのは、日本国民の信念であり、覚悟であり、同時に明治以来の日本外交の根本義も、実にここに存するのであります。



連盟脱退と四国の反響


 内田外相は一月三十一日、興津に西園寺公を訪問、時局に関する報告をなしたうえ、翌一日の閣議において正式決定を見、しかるのち天皇陛下に拝謁仰せつけられ、御裁可を経た帝国政府の回訓を代表部に訓電し、爾来、日本の立場が最もデリケートな進行をなしていたので、内田さんは健康も顧みず、早朝に登庁し、協議、会見、対策と夜自宅へ帰るのは、深更の二時、三時になることは珍しくなかった。

 だが、十九国委員会は規約第十五条第四項に基づく報告書と勧告案をついに採択するに至ったため、政府は二月十七日臨時緊急閣議を開催、勧告案を中心として帝国政府の態度につき、慎重協議を重ねたが、内田さんは勧告案そのものについては断固反対することに腹を決め、松岡代表より、一、勧告案反対、一、満州国反対取消、一、日支直接交渉、一、交渉委員会設置反対を表明せしめることとし、ついで荒木陸相とともに、

「この場合、十九国委員会において採択された勧告案に対し反対する以上は、潔く連盟より脱退すべし」

と主張し、各閣僚を動かして、いよいよ脱退の方針を樹立させたが、二月十九日、斎藤首相は西園寺公と会見して、その意向を聴取したところ、まったく内田さんの意見と同意見だったので、二十日またも緊急閣議を開き、重要協議を開いたうえ、連盟総会における帝国全権の反対投票を決定し、最後に政府の最高方針として、連盟総会が最後まで帝国の主張を顧みず十九国委員会の勧告案を採択し、なんらの誠意を示さざるにおいては、帝国政府としては連盟との関係を断ち、独自の見解において東洋平和の責任を果たさなくてはならぬ。よってこの場合には正式に日本帝国は連盟から脱退することにした。



 当時、朝野のある部分には、こうした事態の進行に驚愕して連盟脱退阻止の策動が行われた。軟弱外交の総本山たる幣原前外相は、まず元老重心の間をかけ回って熱心に暗中飛躍を試み、これと関係深い財界の一角も相当動かされた。

 民政党はここぞとばかりに軟弱外交の旗色を盛り返さんと焦った。若槻総裁は連盟脱退のやむなきを決したという報告に接したとき、それは真実かと疑い、唖然として言うところを知らなかったとのことである。さらに憫笑の至りに堪えないのは、鈴木政友会総裁の態度である。

 鈴木政友会総裁は政権獲得の便宜上、しきりにその輩下を使って軍部にサービスを持ちかけたが、もとより外交上、国防上になんらの信念も主張もあるわけではない。ただ政権獲得に熱中したまでのことで、閣議決定の前、鈴木総裁と斎藤首相との会見が行われた際、世上には政権授受の黙約成立せりと伝えたが、事実は斎藤内閣の連盟非脱退方針に同意を表し、軟弱外交をコミットしていたものと言われている。

 果たせるかな、こうした空気から閣議は一時政党出身各大臣によって、軟弱外交の声かなり優勢となったが、こうした勢いを見事粉砕したのは、内田外相や軍部大臣およびその背後にある国民的与論の重圧であった。



 かくて二月二十四日の国際連盟総会は、日本代表と暹羅代表とを除いて、例の十九国委員会勧告および報告書案を満場一致をもって可決してしまった。枢府の一角や、民間の一部には、事ここに至った内田外交について、かれこれ誹議するものもあるが、これは帝国の立場を真に理解したものではない。内田外相は正義公道の日本精神に対し、俯仰天地に恥じざる堂々たる外交ぶりで一貫した。

 しかも過去数ヶ月にわたって、隠忍自重、よく日本の立脚地を説明し、忍ぶべきは忍び、譲歩すべきは譲歩してきたにかかわらず、連盟をほとんどこれに耳をかさず、依然頑迷なる主義を固持してきたため、勢いの赴くところ内田正義外交は爆発して、ついに連盟脱退の男らしき行動にでたもので、もとより日本国民大衆の嵐のごとき賛同と拍手を内田さんにおくったものである。



西園寺公、三十年の愛顧


 非常時日本の立役者、内田さんは本年六十九歳。慶応元年八月、肥後国の八代郡和歌島村に呱々(ここ)の声をあげた。お父さんは獣医で、内田さんは素直な坊ちゃんとして生育した。

 明治二十年東大政治科の出身である。同期生はまったく秀才ぞろいで、一木喜徳郎が首席、内田さんは次席、ついで早川千吉郎、鈴木馬左也、林権助、林田亀太郎、浅田知定という順序で、内田さんは、首席を一木さんに奪われたことをひどく残念がったという。

 明治二十二年、山縣内閣の農商務大臣、陸奥宗光に認められて秘書官となった。これは実に内田さんの福道出世の端緒であった。陸奥が第二次伊藤内閣の外務大臣となるや、内田さんもその秘書官となってはじめて外交畑に入ったわけで、外交史上の異彩、内田康哉は第一歩をここに印したわけだ。

 明治二十八年、西園寺臨時外相のもとに、幸運はふたたび彼の身にめぐって、内田さんは秘書官兼書記官として破格の知遇を蒙った。西園寺公の内田さんに対する信頼は、爾来三十余年後の今日まで変わるところなく、連盟脱退前後において内田さんがよく閣議を統一し、その指導的存在であったことも、まったく公の愛顧があったからだ。それから第二次西園寺内閣で外務大臣となり、さらに原内閣、高橋内閣、加藤友三郎内閣の外相となったが、この間、内閣総理大臣代理たること二回であった。



 内田さんは生来、頭もあれば腕もあった。だが天才的頭脳とか、巌石を打ち砕く鉄腕家といったタイプではない。いわゆる「平凡なる人傑」というべき人だった。

 小村寿太郎は、どんな重大な場合でも、静かに階段を上がり、悠然大臣室に入ったといわれるが、内田さんはまったく正反対、重要問題が起こると、バタバタ階段を駆け上がり、飛ぶがごとく大臣室に這入(はい)りこむ。このため霞ヶ関の属僚連は大臣の駆け足いかんによってジュネーブの空気がわかったと言っている。

 こうした風格が西園寺公には「間違いのない外務大臣」と愛せられ、原敬には「創作せざる外務大臣」として信頼されたといわれる。内田さんは外交の創作よりも、外交の取り扱いを得意とする外交家である。



 昭和六年、迎えられて満鉄総裁となり、ついで非常時局に際会して外務大臣の重責を担当したものだが、内田さんの処世訓は

「人に迷惑をかけないとともに、他人からも迷惑をかけられぬこと」

であって、間違いのない男として外交畑に活躍してきたのも、まったくこの処世訓からだ。日本は今、完全に連盟と袂を分かって、世界から孤立しているが、内田さんが外務大臣であるかぎり、この孤立は「恐怖なき孤立」であり、同時に「名誉の孤立」である。つまり内田さんはどこまでも「間違いのない男」として、大衆とともに歩む人だからだ。



世界を睥睨する難局外交官


 脱退の後に来たものは、南洋委任統治問題である。列国は日本の脱退から、国際連盟の無力ぶりを暴露させられた腹いせに、盛んにドイツその他の関係国にけしかけているが、軍服外交官内田康哉さんは、

「南洋は断固武力をもって死守する」

と声明したため、列国は怖気(おじけ)がついて沈黙のかたちだ。かくのごとく日本外交は、内田さんによって毅然として泰山のごとき威容と実力を発揮しつつある。内田さんのあの大きな目玉が、世界をにらみ回しているかぎり、極東の平和はいよいよ確固たる基礎に安定するだろうし、非常時日本の難局を打開しつつ、正義の大旆(たいはい)をかざして堂々驀進する内田外交こそは、世界外交史上に不朽の光輝を残すであろう。






引用:阿部真之介『非常時十人男』1933年




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