2015年10月13日火曜日

「子供を失ったか」という恐怖 [服部文祥]



話:服部文祥





樹の生えた緩傾斜帯で、長男が登って来るのを待った。

そのとき、ガラガラと岩が崩れる音がして、ドッポーンと、大きな物体が水に落ちる音がした。笑い話が増えたな、と思った。ところがコールしても反応がなかった。何度か叫び、大声で名前を呼んでも何も返ってこなかった。

慌ててザックを下ろし、長男が登ろうと目論んでいたラインへ走った。森の緩斜面はそのまま渓につながっていたが、長男の姿はなかった。私はあわてた。最悪の状況を想定してしまい、そんなことが起こっていないでくれと祈りつつ、流れの中に息子の姿を探しながら、渓を駆け上がった。

呼びながら走っていくと、さっきのボルダーチックなヘツリにへばりついて、笑っている息子がいた。血相を変えて下流から走ってきた私を見て、すこし驚いている。足下の大きな岩が崩れて渓に落ち、コールは沢音で聞こえなかっただけらしい。私は自分の混乱ぶりを悟られないように、そのまま登るようにうながした。





マザー・テレサの有名な言葉に

思考には気をつけなさい。
それはいつか言葉になるから。

言葉には気をつけなさい。
それはいつか行動になるから。

行動には気をつけなさい。
それはいつか習慣になるから。

習慣には気をつけなさい。
それはいつか性格になるから。

性格には気をつけなさい。
それはいつか運命になるから。

というのがあるらしい。








息子が落ちて意識不明か?

と慌てたあとに、猟期に鹿の親子の子鹿だけを撃ったりしていることを考えた。「子供を失ったか」という恐怖と戦慄が、私に子供を奪われた母鹿の気持ちを想像させたのである。

知り合いの老猟師が「もう十分殺したから」と銃を置く(猟を辞める)のに立ち会ったことがある。「今後も肉を食べるなら、銃を置くべきではない」と当時の私は思っていた(殺生を背負っていくべきだ)。





長男が喜ぶので、イワナを釣って食べた。刺身を筆頭に、燻製にしたり、素揚げにしたり、息子は串を自作して塩焼きにしていた。

もし彼が「生きるとは何か」ということを少しでも考えたとすれば、殺され食べられたイワナたちの命を未来で取り戻すことだってできるだろう。私はまだ老猟師ではないので、それが「生態系の保全につながる柱」だと考えている。生き物をとって食べることが、最も効果の高い環境保護教育である、と信じている。







出典:岳人 2015年 10 月号 [雑誌]
服部文祥「登山も、人生も、手取り足取りすべてを完璧に導くことはできない」




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