2016年9月20日火曜日

「劣った馬」[鈴木俊隆]



話:鈴木俊隆





ある経典に、4種類の馬の話があります。
[サンユクタ・アーガマ vol.33]

4種とは、
「卓越した馬」
「優秀な馬」
「普通の馬」
そして「劣った馬」です。

「卓越した馬」は、ムチの音が聞こえる前に、騎手の意志にしたがって早足や並足、あるいは左右に走ります。

「優秀な馬」は、ムチがちょうど皮膚に届くか届かないかのうちに、卓越した馬と同じように走ります。

「普通の馬」は、身体にムチの痛みを感じたときに走ります。

「劣った馬」は、痛みが骨の髄まで達したとき、ようやく走ります。



この話を聞くと、誰もが「卓越した馬」になりたいと思います。「卓越した馬」になることはできなくても、せめて「優秀な馬」になりたいと思います。これがこの話の、また禅の通常の理解です。

しかしここには、禅についての誤解があります。坐禅の修行を、「卓越した馬」になるためのトレーニングだ、と考えるのであれば問題です。それは正しい理解ではありません。正しい方法で禅を修行すれば、「卓越した馬」でも「劣った馬」でも関係ありません。

ブッダの偉大な心とともに坐禅の修行をすると決意すると、「劣った馬」こそがもっとも大事な馬だとわかります。自分が不完全であるからこそ、道を求める心もしっかりとした基礎ができるのです。そこで私は、ときに最高の馬は最悪の馬かもしれないし、最悪の馬は最高の馬かもしれないと考えるのです。



道元禅師は

将錯就錯
(しょう・しゃく・じゅ・しゃく)

といわれました。錯(しゃく)とは「やりそこなう」「間違う」という意味です。「将錯就錯」とは「間違いを間違いで受け継ぐ」という意味です。あるいは「間違いをつづけてしまう」という意味です。

道元によれば、ずっと続く間違いが、禅でもありえます。禅の老師の一生とは、長い年月の「将錯就錯」ともいえるのです。それは長い年月、間違えても間違えてもひたむきに続ける、ということです。









引用:鈴木俊隆『禅マインド、ビギナーズマインド』




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