2016年10月3日月曜日

おなかに残った双子の一人[想像妊娠]



話:V.S.ラマチャンドラン








あざやかな赤毛をきっちりと結いあげたメアリー・ナイト(32歳)は、モンロー博士の診察室に入り、椅子に腰かけてにこやかに笑った。

メアリーは妊娠9ヶ月で、これまでのところすべてが順調だった。待ちに待ったうれしい妊娠だったが、モンロー先生の診察を受けるのはこれが初めてだった。1932年のことで、経済状況がきびしく、夫は定職がなかった。だからいままでは、同じ通りに住む助産師と私的に話をしたことしかなかった。

しかし今日はちがう。しばらく前から赤ん坊がおなかを蹴るので、もうすぐ陣痛がはじまるのではないかという気がしていた。モンロー先生に健康診断と赤ん坊が正常な位置にいることの確認をしてもらい、妊娠の最終段階の指導を受けたいと思ってやって来たのだ。もう出産に備えなくてはならない時期だった。



モンロー博士はメアリーを診察した。

腹部のふくらみは非常に大きく低く、胎児はすでに下がってきているようだった。乳房もはちきれそうにふくらんで、乳首には斑点があった。

しかし何かがおかしい。

聴診器をあてても、はっきりとした胎児の心音が聞こえない。赤ん坊がおかしなほうにまわっているか、それとも何か問題があるのか。いや、そんなことではない。メアリーのへそがまるでおかしいのだ。

妊娠の確かな徴候の一つは、へそが反転すなわち突き出ることだ。メアリーのへそはふつうと同じように引っ込んでいる。「でべそ」ではなく「引っ込みべそ」なのだ。



モンロー博士は軽く口笛をならした。

「想像妊娠」のことは医学校で習っていた。妊娠したいと思いつめていると、--妊娠を極度におそれているケースもときおりあるが-- 本当の妊娠の徴候や症状がすべて出てしまうことがある。

腹部は、後ろにそった姿勢と不可解な脂肪の蓄積に助けられて、ものすごくふくらむ。乳首も妊婦と同じように色素が沈着する。月経は止まり、乳汁の分泌も、つわりもあって、胎児の動きも感じる。

すべてが正常に見えるが、一つだけちがう。

赤ん坊がいないのだ。



モンロー博士はメアリー・ナイトが想像妊娠であることを知ったが、しかしどう言えばいいのか。すべては彼女の頭のなかのことで、体の劇的な変化は思いこみによるものだなどということを、どう説明したらいいのか。

「メアリー」

彼はおだやかに言った。

「赤ちゃんはもうすぐです。今日の午後には生まれるでしょう。痛くないようにエーテルを使います。陣痛ははじまっていますから大丈夫です」



メアリーは大喜びで、おとなしく麻酔をうけた。陣痛のときにエーテルを使うのはふつうのことだったし、メアリーもそのつもりだった。

すこし経ってメアリーが目覚めると、モンロー博士は彼女の手をとってやさしくなでた。そして落ちつくのを待ってから言った。

「メアリー、お気の毒だが悪い知らせです。赤ちゃんは死産でした。できるだけの手はつくしましたが、だめでした。ほんとうに残念です」

メアリーは泣きくずれたが、この話を受け入れた。

するとたちまち分娩台の上で、腹部のふくらみがひいていった。



赤ん坊を失って彼女はうちひしがれていた。家に帰って夫と母親に話さなくてはならない。家中がどれほど落胆するだろう。

一週間がすぎた。

そしてモンロー博士を仰天させることが起こった。前よりも大きなおなかをしたメアリーが診察室に飛び込んできたのだ。

「先生!」

と彼女は叫んだ。

「また来ました。双子の一人がおなかに残っていたんです! おなかを蹴っています!」







私はインドで生まれ育ったので、よく人から西洋文化に認識されていない心と体の結びつきがあると思うかと聞かれる。

ヨーガの行者はどうやって血圧や心拍数や呼吸をコントロールしているのですか? 熟達した行者は腸の蠕動を逆向きにできるというのは本当ですか(いったいなぜ、そんなことをしたいのかという疑問はさておくとして)? 病気になるのは慢性的なストレスのためなんですか? 瞑想すると長生きできますか?

もし5年前にこういう質問をされていたら、私はしぶしぶ認めるという態度で答えただろう。

「確かに心が体に影響をおよぼすことがあるのははっきりしています。明るい態度でいれば免疫系の働きが高まって、病気の治りが早くなることもあるでしょう。それにプラシーボ効果という、よくわかっていないものもあります --ある治療法を信じるだけで、健康状態が改善されるんですよ。実際に体がよくなるとまではいきませんが」



しかし心が不治の病をなおすという意見には、以前から相当に懐疑的である。それはただ西洋医学を学んだからではない。実験にもとづく主張に説得力のないものが多いからだ。

乳癌の患者で、積極的な生き方をしている人たちのほうが、病気を受け入れていない人たちより平均で2ヶ月長く生きるとして、それがどうだというのか。たしかに2ヶ月でもゼロよりはいいが、ペニシリンなどの抗生物質が肺炎患者の生存率を高めた効果にくらべれば、自慢するほどのことではない。

(今日、抗生物質を称賛するのが時代おくれなのは承知しているが、わずか2〜3回のペニシリン注射で子どもが肺炎やジフテリアから救われるのを一度でも見れば、抗生物質は本当に奇跡の薬であると確信するはずだ)







私はメアリー・ナイトのケースにぶつかったとき、想像妊娠がわたしの探している(心身の)つながりの一例になるかもしれないと思いついた。

人間の心が妊娠のような複雑なものを出現させるのなら、脳は体に対して、あるいは体のために、ほかにも何かできるのではないか? 心と体の相互作用の限界はどこにあるのだろうか。どんな経路がこうした不可解な現象を成立されているのだろうか。



驚くべきことに、想像妊娠の妄想は、妊娠につきもののありとあらゆる生理的変化をともなっている。月経の停止、乳房の膨隆、乳首の色素沈着、異食(妙な食べ物を食べたがること)、つわり。

なかでも一番驚くのが、腹部がしだいにふくらみ、「胎動を感じて、最後は実際に陣痛がおこることだ。かならずというわけではないが、子宮や子宮頸が拡大することもときどきある。だがレントゲンでは何の徴候もない。

わたしは医学生のころ、経験のある産科医でも、注意をしていないと臨床所見にだまされる場合があることや、過去には想像妊娠の患者に帝王切開が多く行われたことを知った。

モンロー博士がメアリーのケースで察知したように、事実を告げる徴候は「へそ」にある。



想像妊娠にくわしい現代の医師は、下垂体か卵巣の腫瘍のためにホルモンが放出され、妊娠にそっくりの徴候がでるのが原因であると考えている。小さくて臨床的に検出できない、プロラクチンを分泌する腫瘍(プロラクチン産生腺腫)が下垂体にあると、排卵や月経が抑制されて、その他の症状が引き起こされる可能性がある。

しかしこれが本当なら、状況がときどき可逆的であるのはなぜなのか?

メアリー・ナイトの身に起きたことを、どんな腫瘍で説明ができるのだろうか? 彼女の腹部は、「陣痛」のあと小さくなった。そしてまた、「双子」のおかげで大きくなった。それがみな腫瘍のせいだとしたら、腫瘍は想像妊娠よりもはるかに大きな謎を提起することになる。



では想像妊娠の原因は何なのだろう?

文化的な要因が大きな役割をはたしているのは間違いないし、1700年代に200人に一人だった想像妊娠の発生率が、現在はおよそ一万人に一人に減少していることも、それで説明できるかもしれない。

過去においては、多くの女性が赤ちゃんを産むことに非常に大きな社会的圧力を受けていたし、妊娠したいと思ったときにそれを超音波検査で否定されることもなかった。「ほら、ここを見てください。赤ちゃんはいません」と確信をもって言える人はいなかったのだ。

現代の妊婦は何度でも検査を受けるのであいまいさが残る余地はない。超音波画像という身体的な証拠を提示されれば、妄想やそれにともなう体の変化は通常は消えてしまう。



想像妊娠の発生率に文化が影響をおよぼしていることは否定できないが、実際の体の変化は、どうして起こるのだろうか?

この心と体の奇妙でやっかいな状態について調べた数少ない研究によれば、腹部のふくらみ自体は、ふつう次の5つの要因の組み合わせによって起こる。腸内にガスがたまる。横隔膜が下がる。脊柱の骨盤部が前にせりだす。大網(小腸の前に垂れ下がっているエプロン上の脂肪)が劇的に増殖する。

そして稀には、子宮が実際に拡大する。視床下部(内分泌を調整している脳領域)もおかしくなるらしく、ホルモンに大きな変動がおこり、妊娠そっくりの徴候がほぼでそろう。



しかも道は双方向である。体のほうも、心が体におよぼす影響とおなじくらい深い影響を心におよぼし、想像妊娠の発生と維持に関与する複雑なフィードバック・ループを生じさせる。

たとえばガスによる腹部の膨張や「妊婦の体位」は、古典的条件づけで部分的に説明できるかもしれない。妊娠を望んでいたメアリーは、腹部のふくらみを見て横隔膜が下がっているのを感じ、横隔膜が下がれば下がるほど妊婦のように見えるこを無意識のうちにおぼえる。また、ガスの滞留を増やす、空気ののみこみ(空気嚥下)と胃腸の括約筋の自律的な収縮の組み合わせも、おそらく無意識のうちにおぼえることができる。

このようにしてメアリーの「赤ちゃん」や「見過ごされていた双子の片方」は、無意識の学習の過程を通して、文字どおり空気のなかからつくりだされる。



腹部の膨張についてはこれでいい。

しかし乳房や乳首やそのほかの変化はどうなのか?

想像妊娠で見られる臨床的徴候の全体をもっとも簡便に説明づけるとすれば、子どもを切望する気持ちと、それにともなう抑うつで、ドーパミンとノルアドレナリン --脳内の「喜びの神経伝達物質」-- の濃度が下がるからではないかということになる。

この低下によって、排卵をおこす卵胞刺激ホルモン(FSH)とプロラクチン抑制因子と呼ばれる物質の産生がともに減少する。これらのホルモンの濃度が下がると、排卵や月経が停止してプロラクチン(母性ホルモン)の濃度が上昇する。そしてそれが乳房の膨張や乳汁の分泌、乳首のひりひりする感覚、母性的行動(ただしこれは、人間ではまだ証明されていない)などを引き起こし、卵巣のエストロゲンやプロゲステロンの産生の増加とあいまって、妊娠しているような印象をあたえる。

この見解は、重度の抑うつで月経が停止するという、よく知られている臨床所見とも一致する。抑うつで月経が停止するのは、抑うつで無気力になっているときに、排卵や妊娠のための貴重な資源を無駄にするのを避ける進化的戦略である。



しかし抑うつの月経停止がよくあるのに対し、想像妊娠はごく稀である。

子どもに固執する社会のなかで子どもができないことから生じる抑うつには、おそらく特別な何かがあるのだろう。もし、妊娠に関する無双が抑うつにともなっている場合に限ってこのシンドロームが起こるとしたら、おもしろい疑問が生じる。

新皮質に端を発したごく特殊な願望もしくは妄想が、どのようにして視床下部によって翻訳され、FSH(卵胞刺激ホルモン)の減少やプロラクチンの増加を引き起こすのか --もしそれが本当に原因だとすれば、もっとわからないのは、想像妊娠の患者のなかにプロラクチン濃度の上昇が見られな患者がいることや、ぴったり9ヶ月で陣痛がはじまる患者がたくさんいることだ。成長する胎児がいないのに、なにが陣痛の引き金になっているのだろう?

これらの問いに対する究極の答えが何であれ、想像妊娠は、心と体の謎めいた中間領域を探索する貴重な機会を提供してくれる。



偽の妊娠や陣痛は女性に起こるだけでも驚きに値するが、少数ながら男性の想像妊娠の例さえ報告されている。あらゆる変化 --腹部の膨張、乳汁分泌、妙な食べ物に対する欲求、吐き気、そして陣痛まで-- が一つのシンドロームとして独自に起こることもある。

しかしもっと一般的には、妊娠した妻に深く感情移入して、いわゆる共感妊娠またばクーバード(擬娩)・シンドロームと呼ばれる状態になる。私はよく、感情的に共感することによって(あるいは、もしかすると妊婦が発するフェロモンによって)、夫の脳のなかでプロラクチン(最重要の妊娠ホルモン)が放出され、それが変化の原因になっているのではないかと、あれこれ考えてみる。

(この仮説はとっぴに思えるかもしれないが、実はそれほどでもない。タマリン・マーモセットのオスは、子育て中のメスの近くにいるとプロラクチン濃度が上昇する。そしてこれが父親としての愛情を促進して、子殺しを減少させるのではないかと考えられる)

私は、ラマーズ法の講習会に参加している男性から話を聞いて、擬娩のような徴候がある男性のプロラクチン値を測定してみたい。









引用:V.S.ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』




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