2017年8月8日火曜日

数字でみる日米軍事差[WW2]





話:ヘレン・ミアーズ





私たち(アメリカ人)は日本人の「ファナティック(狂信的)な好戦的」性格を強調しすぎてきた。だから、たとえ日本人がその何倍もファナティック(狂信的)だったにせよ、私たちとのいかなる戦争にも勝てるはずはなかったという事実がぼかされているのだ。

私たちは日本の「軍国主義的性格」にこだわりすぎたために、近代戦の勝利はほとんど、狂信的兵士にではなく工場労働者に負っている事実がみえなくなっている。1944年1月末の時点で、アメリカの産業死亡件数は戦死者数を7,500件上回っている。兵士個々の英雄的行為と苦難は、敵味方いずれの側であれ、軽んじるつもりはない。しかし、軍事力が高度に機械化された今日の世界では、工業生産力を無視して「世界の脅威」を正しく論議することはできないのだ。

総じて私たち(アメリカ人)は、日本をドイツと同じぐらい豊かな工業国だと思ってきたが、これはまったく違う。戦時生産局の推定によれば、第二次大戦中、ドイツとドイツ統治領は枢軸国の軍事物資の90%を生産していた。イタリアと日本は残りの10%を分担していたにすぎない。アメリカが1942年末までに生産した戦車、航空機、鉄砲、艦船の量は枢軸国全体の生産量に匹敵する。この推定の確度はともかくとして、工業、軍事国家としての日本はドイツやアメリカにくらべて「ピグミー程度のもの」だったのだ。



日米の軍事費の差は圧倒的だ。満州事変以降の両国の軍事予算を比較すると、日本軍がアジアで活発に動いていた(私たちアメリカの公式非難によれば、世界を征服しようとしていた)ときでも、アメリカの平時における通常軍事費のほうが日本の軍事費をはるかに上回っている。

たとえば1931年の米軍事予算はもう少しで日本の3倍を超えるところまできていた。満州事変に関する公式報告が正しければ、この年日本は「1億5,200万ドル」に満たない軍事予算で世界征服を開始し、一方、私たちは国内の軍隊を満足させるだけで「6億6,700万ドル」を必要としていた。

もし日本が本気で世界征服に乗り出したというのなら、これでいったいどうするつもりだったのか。日本が近代的軍事力をもつには、飛行機部品、屑鉄、石油、工作機械、ゴム、スズ、銅、綿など必要な物資や基本原料をアメリカ、イギリス、オランダから買い入れなければならなかったし、まして米ドルと英ポンドで支払わなければならなかったことを考えると、日本のいわゆる世界征服は初めから本物ではなかったといえるのだ。

確かに日本の軍事予算は満州事変以降、着実に増えていった。日本の国家予算の規模からいえば、きわめて大きな伸びである。しかし、米ドルに換算し、アメリカの軍事費増と比較すると、それほどの伸びではない。1941年までに、日本の年間軍事費は13億3,400万ドルに達しているが、アメリカの「国防」支出は60億ドルにまでふくらみつつあった。

日米関係が戦争に向かって急速に悪化していた1941年11月中旬、両国政府はそれぞれの議会に軍事予算の増額を求めている。ルーズベルト大統領は「70億ドルの増額」を、日本政府は「9億8,000万ドル」の増額を要請した。1943年1月のルーズベルト大統領の予算教書によれば、パールハーバー直後から私たちは毎月「20億ドル」を支出している。日本が重大なパールハーバーの年の一年間に認められた軍事費をほとんど一ヶ月でつかっていた。

日本の軍事予算は1944 - 45年に380億円を追加計上してピークに達した。これは「ほぼ90億ドル」に相当するが、すでに日本の工業生産は成長が止まっていたし、基本物資不足のために減少し初めていたのだから、これは単なる期待値にすぎない。これに対して、同じ時期、私たちは「970億ドル」にのぼる国防費を認められて、戦闘態勢に入ったのだ。

1937年7月の「日華事変」からパールハーバーまでの4年5ヶ月の間に、日本は中国と満州の軍事・防衛活動に「62億5,000万ドル」をつかった。1940年7月から1941年3月までに、アメリカは「1,610億ドル」をつかっている。満州事変から降伏まで、14年間の日本のそう軍事予算は「480億ドル」を下回っている。これはアメリカが武器貸与法で同盟国に供与した額をやや上回る程度である。戦争の全期間を通じて私たちが支出した軍事費は「3,300億ドル」にのぼっているのだ。



こうした数字を艦船、航空機、戦車、弾薬に置き換えてみると、「脅威」の内容がよくわかる。対日戦略を策定した人たちが、日本の狂信的神道崇拝なるものではなく、厳しい経済状態を事実に即して見ていたら、貴重な人命と財産をこれほど犠牲にしなくても日本の軍部は敗北していただろう。

国家は人間によって統治されているから、人間と同じように自分の立場で他人を見ようとする。あまりにも豊かで強大な国に住む私たちアメリカ人は、戦争が始まったとたん、日本の軍事力を過大評価するようになった。同じように、逼迫した経済状態の国に住む日本人は、とかくアメリカを過小評価していたのだ。

パールハーバーの時点で、私たちの戦時生産計画は日本をはるかに超えていた。私たちは「日本人はファナティック(狂信的)な軍国主義者である」という公式非難を鵜呑みにして、日本の生産態勢が1942年半ばまでは、必ずしも全面的に戦争目的に振り向けられていなかったことに気づいていない。一方、日本は緒戦にたやすく勝ってしまい、アメリカ、イギリス、オランダが太平洋とアジアの領土に蓄えていた戦争物資を手に入れることができたから、軍事大国幻想にとり憑かれてしまった。



パールハーバーの時点で日本の陸海軍がもっていた飛行機は全部で「2,625機」だった。アメリカと連合国が太平洋の基地に配備していた飛行機は「1,290機」にすぎない。一見して日本のほうが圧倒的に有利に思える。しかし、日本の飛行機は満州から南太平洋まで、広く薄く配備しなければならなかった。月間生産量はわずか「642機」で、9ヶ月間このままの数字で推移している。1944年9月に月間生産量は最高の「2,572機」に達したが、それからすぐ原材料不足のために落ちはじめる。もちろん、訓練されたパイロット、整備兵、燃料も足りなかった。

私たちのほうは1941年6月には月間「1,600機」の飛行機を製造していた。以後生産量は急速かつ着実に伸びて、1943年に「8,000機」を超え、1944年には「9,000機」に達した。1945年には私たちの一年間の製造機数は、日本が1941年から降伏までに製造した飛行機の2倍にのぼっている。

そのうえ日本はアメリカの「1」に対して「10」の割合で飛行機を失っていった。そして、戦闘用飛行機といえば、航続距離の長い巨大爆撃機「空の大要塞」を考える私たちアメリカに対して、日本人は脆弱なゼロ戦と小型の片道カミカゼ飛行機を考えていたのだ。



日本海軍は常に日本の巨大兵器であるといわれてきた。しかし、総重量トンと戦略のいずれの面でも、第一級の海軍国家と本格戦争を構えられるようなものではなかった。

1940年2月の帝国議会予算審議で、海軍は2,780万円の「近代化後肝炎計画」の承認を求めた。この審議の模様を伝えた新聞報道によれば、国会は軍の要求を法外なものとして「怒り」を表明したという。しかし、海軍の要求は「700万ドル程度」で、むしろ控え目とさえいえるものだった。同じ年の7月、米国議会は戦艦44隻、非戦闘艦1隻を補強する海軍拡充計画を承認している。総額「5億5,000万ドル」、一艦当たり1,200万ドルの支出である。アメリカ海軍からみれば、日本海軍は「手漕ぎボート程度」の計画を立てていたのである。

日本は「127万1,000総トン」の艦船で戦争を始めた。戦争中、彼らは新たに104万8,000トンの艦船を建造し、総重量は231万9,000トンとなった。1941年に私たちアメリカが新たに建造したのは「93万5,422トン」である。1942年には、日本海軍の総トン数に相当する艦船を増強した。1944年になると、私たちは日本が戦争開始から終結までに保有した全艦船の3倍に匹敵するトン数を新造した。ところが、すでに日本海軍は沈没と燃料不足から形ばかりの防衛戦力に成り下がっていた。

1943年9月には、私たちアメリカは「史上最強の艦隊、世界最強の海軍航空兵力」を宣言する。米戦略爆撃調査によれば、1945年春の段階で、日本の「わずかに残った艦船は燃料がないために廃棄されるか、カムフラージュされて対空施設につかわれているにすぎない」状態となっていた。

日本の輸送船は底をついていた。米戦略爆撃調査は「…日本が戦争を始めたとき、輸送船団はわずか600万トンで、ぎりぎり最低限の要求に応じられる程度のものだった。日本の建造量はたちまち損失量に追い越された。日本が保有していた輸送船総数の88%が戦争中に撃沈された」と述べている。戦争が終わった時点で、私たちは5,500万トンの船を残していた。



鉄鋼生産だけとってみても、十分状況がわかる。鉄はいかなる軍事計画にとっても筋肉であり骨である。1939年、アメリカは「5,250万トン」の鉄を生産していた。生産はさらに増大し、1942年には「8,800万トン」に達した。これはドイツ占領下のヨーロッパも含む枢軸国全体の推定生産量を上回る数字である。

日本の生産量は「世界征服」に乗り出した年の1943年で「333万4,000トン」である。大戦中の1943年に「780万トン」までもっていくが、これをピークとして1944年には「590万トン」まで落ち込んでいる。この間、基本原料の保有量と海上輸送圏は著しく縮小され、戦争終結時の鉄鋼生産量は「150万トン」になっていた。ちなみに1946年には32万トンを生産したにすぎない。



アメリカと諸外国の生産能力を数字の上で比較するにつけ、なぜ私たちアメリカが日本を怖れてきたか、わからなくなるのだ。アメリカは精神鑑定が必要かもしれない。

日本が経済的に窮乏していたという事実は、一つひとつが極めて重要な意味をもっている。もし日本が1931年に世界征服を開始したとしたら、アメリカ、イギリス、オランダ、フランスは征服事業の協力者といわなければならない。これら各国が支配する地域からの物資供給がなければ、日本は満州事変と日華事変を遂行できなかったし、パールハーバー、シンガポールも攻撃できなかったろう。そればかりでなく、多くの日本人が食べていけなくなったろう。アメリカ、イギリス、オランダ三国は、日本の軍事必需品の85%を供給していた。1938年には、アメリカだけで57%を供給しているのだ。

日本の戦争機関が形成されたのは1938年以降のことである。全生産を戦争に振り向けるようになったのは、ようやく1942年になってからだ。日本が日華事変を継続させることができたのは、アメリカとイギリス、オランダ両帝国から買っていた綿、工作機械、石油、屑鉄など戦略物資のおかげなのだ。そのおかげで対米関係の悪化に備えて備蓄もできた。そして、戦争開始から数年間を賄うだけの軍事力がもてたのは、シンガポール、マレー、フィリピン、インドで得た略奪品のおかげなのだ。しかし、海上輸送手段と産業施設が不十分だったために、占領地域で原料を増産することができなかった。米戦略爆撃調査はその点についてこういっている。

「海上封鎖が占領地域の資源開発を妨げ、日本経済を失調させ、原料物資不足をもたらした。この結果、戦時生産は停滞し、石油不足から艦船、航空機の活動は停滞し、訓練回数も削減された」

つまり、私たちは小規模の「脅威」をつくり出し、それがいかにも巨大であるかのごとくに追いまわしていたのだ。







出典:アメリカの鏡・日本 完全版




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