2017年8月9日水曜日

「動かないアヒル射ち」[WW2]



話:ヘレン・ミアーズ







つくられた脅威


日本占領はアメリカの自衛上必要な軍事作戦だったという。しかし、果たしてそうだったろうか?

ドイツと違って、日本の指導部は本土侵攻を前にして無条件で降伏し、最高に厳しい要求を受け入れた。スチムソン元陸軍長官は、日本は「アメリカ人だけでも百万人を殺傷できる」力を残しながら降伏したという。それなら、なぜ日本は降伏したのか? 世界で「最も軍国主義的国家」であり、「ファナティック(狂信的)な好戦的民族」がなぜ、武器を置いて占領を受け入れ、精いっぱい友好的な顔をして征服者に協力しているのか?

公式説明は、原子爆弾が彼らを震え上がらせ、野蛮な根性を叩き潰したからだという。しかし、もっと証拠に近寄ってみれば、そうはならない。日本民族は好戦的ではなかった。日本の戦争機関は、占領や原爆投下のずっと前に完敗していたのだ。



「日本 = 世界の脅威」とは、実に大げさなつくり話だ。日本は簡単に転がり込んできた初期の戦果に浮かれていたときでさえ、軍事大国とはいえなかった。日本の軍事費はアメリカとくらべて、問題にならないほど少なかったし、軍事物資は質量ともにアメリカには及ばなかった。

日本兵は、無敵にスーパーマン戦士などではなく、ほとんどが食うものも食わず、満足な装備もなく、しかも極度の消耗と栄養失調から、しばしばヒステリーに陥っていた。死者が多かったのは、「降伏より死を選ぶ」狂気の覚悟によるものではない。私たちの火力が圧倒的にまさっていたからだ。そして日本兵が披露、恐怖、ヒステリーから集団自決を図ったからだ。

日本の委任統治領にあった基地は、難攻不落の「ジブラルタル」どころか、装備はお粗末きわまりなく、何とか守っているといった状態だった。そういう事実は戦場からの報道や、占領後の公式調査報告からも明らかだ。



「日本の脅威」に対する私たちアメリカ人の恐怖は、異常に誇張されていた。パールハーバーの衝撃と日本軍が緒戦に見せた意外に迅速な展開ぶりから、とかく誇大に描かれてきた日本兵の不屈の戦闘精神や戦争機関の攻撃能力が本物になってしまったのだ。

日本軍が開戦から数ヶ月の間にあげた戦果は、表面的にみれば、確かにめざましい。最初の一撃で私たちの太平洋艦隊は半身不随にされ、堅固といわれていたイギリスの要塞、香港とシンガポールが陥落した。日本軍は脅威的なスピードで欧米軍を降伏させ、フィリピン、オランダ領東インド諸島を占領し、ビルマになだれ込み、インドに進撃した。

アメリカの新聞は「史上稀にみる巨大帝国の出現」という記事であふれた。1942年の地図をざっと見るかぎり、この表現は必ずしも誇張とは思えなかった。アメリカの広報担当者たちは、こうした事実を基にして、「凶暴で猛々しい戦闘民族像」をつくり出した。日本軍が緒戦に勝った理由を十分に分析しないで、日本の兵士の勇猛さとか指導部の野望に結びつけた。

だから、いまでも、日本軍はあと1cmでアメリカを「征服」し、「ホワイト・ハウスで講話を結ぶ」ところまできていたと信じているアメリカ人が少なくない。



日本人の勇猛さに対する恐怖は、ほとんど根拠のないものだったが、誇張されたプロパガンダがそれを覆い隠してしまった。日本の戦争機関は一度も「アメリカの安全を脅かした」ことはなかったのだ。

日本が実際にやったことといえば、私たちの海岸線から3,700kmも離れた軍港にいる艦船を爆撃したことである。彼らが私たちの大陸に最も近づいたのは、3,000km離れたアリューシャン列島の島を2つ占領したときである。それも攻撃の先鋒としてではなく、アメリカの攻撃を遅らせるための自衛手段だった。

日本が最もファナティック(狂信的)だった時期の最もファナティック(狂信的)な日本人でも、アメリカを「征服」できるなどとは考えていなかった。



山本提督が「ホワイト・ハウスで講話を結ぶ」といったことが徹底して宣伝され、この発言はいまやアメリカ人にとって消しがたい神話の一部となっているが、彼はけっしてそう豪語したのではない。

この言葉はむしろ、アメリカとの間で問題をこじらせると、日本にとって非常にむずかしいことになるという警告だったのだ。彼がその中で「豪語」したという手紙は、占領後に日本で見つかった。その内容はこうである。

もし日本とアメリカの間で戦争が起きれば、グアム、フィリピンを取るだけでは十分ではない。ハワイ、サンフランシスコを取ってもまだ十分ではない。われわれはワシントンまで攻め入って、ホワイト・ハウスで条約に調印する以外に道はない。

わが国の政治家は、果たして開戦がもたらす結果に確信をもっているであろうか、そのために支払うべき犠牲を覚悟しているであろうか。

私たちの戦争に関する説明と平和計画は、こういう「証拠」の上に成り立っている。





パールハーバー以前は、経済封鎖に対する日本の脆さを知っている人なら、日本が大国にとって軍事的脅威になるなどということを、誰も本気で考えたことはない。

日本は近代戦のための重要物資をすべて輸入しなければならないのだから、物資の補給が遮断されれば、戦争機関は自動的に停止してしまう。しかも、日本は食料も輸入しなければならないのだから、海上輸送路が遮断されれば、通常の国内経済は立ちゆかなくなる。

パールハーバー以前の日本軍には、事実上無防備の中国なら十分やっつける力はあったろう。長征部隊の奇襲攻撃や暴発的反抗なら叩くことはできただろうが、大国相手の本格的長期戦に勝てるとは考えられていなかった。



パールハーバー以前の日本の軍事力が基本的に弱かったのは、日本軍が「日華事変」に苦労していたことからも明らかだ。この戦争の5年間、日本の戦闘機関はイギリス、オランダが中国内にもつ鉱山から、あるいはアメリカに助けられて物資を補給していた。

イギリスはビルマ鉄道を封鎖するなどして側面から援助していたし、華北でもさまざまな形の経済的、財政的援助をしていた。にもかかわらず、日本は「事変」を軍事的に終結させるだけの決定的勝利を収めることができなかった。新聞や政治家は、日本軍は「中国を征服する」どころか、孤立した拠点の周辺を守るのが精いっぱいの状態である、と繰り返し伝えていた。

スチムソンは1940年6月までにニューヨーク・タイムズに送った手紙の中で、日本軍は「泥沼に入り始めた」といっている。汪精衛(おうせいえい、南京政権と大軍閥を率いていた)のような中国人指導者や、上海、香港の多くの中国人協力者の全面的協力がなかったら、アメリカの武器援助があったにしても、日本軍が戦争を継続できたかどうか、きわめて疑わしい。



蒋介石のオーストラリア人顧問、W.H.ドナルドがルソンの日本軍捕虜収容所から解放されたあとのインタビューで語ったところによると、日本は1938年から1941年の間に「十二の和平提案」を行っている。

日本側の条件は中国側に「有利」なものだった、という。つまり、日本の要求は、満州国の独立の承認、華北の経済と開発に関する何らかの権利、「外蒙古から及ぶロシアの影響力の伸長を阻止するための内蒙古の政治的調整」だけだった。ドナルドは「日本はこれらの提案の中で、領土的要求はいっさいしていない」と語っている。

これが、中国における日本の目的にすべてだったとはいえないが、パールハーバー以前のアメリカの公式資料には、これとほぼ同じ内容の日本の公式声明が記録されている。



このように日本の脆弱さは十分に知られていたから、パールハーバー以前は、日本はまかり間違っても英米連合と戦争する危険を冒すことはあるまいと、広く信じられていた。パールハーバー前の英米の政治・経済戦略はこうした日本の基本的脆弱さを前提としていたようである。

だから、日本の第一撃の規模と速さはアメリカの軍事専門家を驚かせたのだが、これは日本国民にとっても驚きだった。日本の電撃戦の勝利が、日本の軍事力に対する認識を大きく狂わせた。

この成功をとらえて、日本はいまや「世界で最も巨大な帝国」を支配しているといった人々が、日本が東南アジアの占領地域を帝国の一部であると主張したことはないという事実については、何もいわないのだ。

これら占領地域について日本は、アメリカがアイスランドや北アフリカを占領したのと同じように、戦時の「防衛」手段として占領した、あるいは「有色植民地住民」をヨーロッパの宗主国から自由にするための「解放」軍として占領したものである、と主張していた。日本はほとんどの占領地域で現地「独立」政権をつくって、自分たちの主張が偽りでないことを証明しようとした。



もちろん、占領地域を征服領土にしようとした証拠がないからといって、日本の軍部がとくに自由を愛していたことにはならない。

それに、日本の緒戦段階での領土獲得は、軍事的成果ではなく政治的成果、あるいは放棄によるものである。日本はフランスのビシー政権との合意に基づいてインドシナを占領した。これはアメリカの北アフリカ占領を認めたダルラン提督が力を貸した結果なのだ。イギリスとオランダは植民地から撤退し、あるいは、抵抗らしい抵抗もせず領土を明け渡した。

そして、現地住民は消極的にしろ積極的にしろ、おおむね日本側についた。マレーとビルマからイギリスが撤退したのは、どこまでが軍事的結果で、どこまで政治戦略だったか明らかではないが、インド参戦の条件として、戦後の独立の保証を要求していたインド会議派の指導者とメンバー数千人が、日本のインド侵攻が間近に迫っていることを理由に逮捕されている。



私たちはパールハーバーで大きな損害を受けたものの、その後は善戦した。フィリピンでは相当数のフィリピン人が私たちとともに戦い、日本が当初送り込んだ兵士2万人のうち1万7,000人を殺した。日本軍は満州と中国から部隊を増派して、ようやくフィリピンを奪ったが、これは米軍が兵力を削減したあとのことである。

どちらが戦争を始めたかはともかく、私たちの戦争目的は、日本のアメリカ征服を阻止することではなく、日本を征服することだった。戦前、戦中を通じて、日本が帝国の一部として、あるいは委任統治領として支配する地域に攻め入り、アメリカ本土からはるか遠くに広がるアジアの島と領土を占領することがアメリカの目的だった。

そして、ついには日本の本土を占領することが私たちの目的だったのだが、「ふくれあがった軍国主義日本の虚像」が、この事実から私たちの注意をそらしてしまった。



ところで、日本を征服するために私たちが戦わなければならなかった「敵」は、兵站線と地形だった。気候と地形がまったく違う広大な場所に展開する膨大な兵力への補給、恐怖と困難に加えて、ジャングル特有の疾病、毒虫、爬虫類、そういう敵が数多くいた。この悪条件のもとでは、日本兵がとくに強くなくても、戦闘は十分厳しいものだった。

日本軍が快進撃を果たしたのは初めの2、3ヶ月にすぎない。彼らは事実上ほとんど抵抗を受けないで進撃したが、実際はこの段階ですでに戦争に負けていた。彼らは戦線を広げすぎて、自分の首に縄をかけてしまった。私たちは、日本軍の補給線を切断して、首の縄を絞めさえすればよかったのだ。

私たちは、日本軍の扼殺に向かって着実に前進していた。パールハーバーとフィリピンでこうむった被害にもかかわらず、1942年5月には、早くも私たちは日本軍の進撃を食い止めた。



しかし、日本軍は別にアメリカ本土を目指していたわけではない。アメリカとオーストラリアの連絡路を切断するために前進していたのだ。1942年6月のミッドウェー海戦で、私たちは「海軍航空力の優位を確保し…その結果、海軍力全体の優位」を確実にした。

日本軍の軍事物資不足に加え、「お粗末な作戦指揮と戦術」のおかげで、私たちは開戦初年で、日本の海上輸送、兵員増強、補給の首を「絞め上げ」始めていた。オーブリー・W・フィッチ提督によると、1943年までに、われわれは「従来規模の電撃戦なら総攻撃をかけられる」だけの戦力を配備し終えていた。

1944年に入ると、アメリカの工業生産は本格的に回転を始めた。日本では、ただでさえ足りない工場施設が生産の限界に達し、必需物資さえ不足し始めていた。



早くもこの段階で前線からの報道は、日本の戦争機関は急速に失速しているとの観測を伝え始めた。2月8日、フランク・クラックホーン記者は、ニューギニアから次のような記事を書き送っている。

ジャップ(日本軍)は遠隔の占領地を守る意欲も能力ももっていない。南太平洋のいたるところで、ジャップ(日本軍)はずたずたにされるだろう。…ジャップ(日本軍)の状況は、わが海軍、陸軍、空軍、ワシントンが現認し…思っていたよりもっと悪化している。

もはや日本の海軍と空軍はささやかな抵抗しかできなくなっていた。日本陸軍の主力部隊は、後方基地と補給拠点から切り離され、ゲリラ集団と化していた。

1944年4月3日付のニューヨーク・タイムズは、米軍は南・南西太平洋地域で少なくとも10万の日本軍部隊を封じ込め、「日本兵は弾薬が尽きるまで戦うか、ジャングル深く逃げ込んで飢えて死ぬか、病死するかの絶望的な状況に追い込まれている」と伝えた。4月11日付の同紙は「日本兵は次第に発見しにくくなっている。わが軍の前線指揮官にとっては、これが悩みのたねである」というローウェル将軍の言葉を伝えている。



1944年2月29日には、ノックス海軍長官が米潜水艦は日本の艦船のほぼ半分を沈めたと発表した。「日本は所有する、あるいは押収または購入によって取得した全輸送船750万トンのうち300万トン以上を失った」。これに対して、同作戦中にわが方の潜水艦がこうむった損害は「驚くほど小さい」ものだった。

1944年5月の段階で、フォレスタル海軍長官の言明として伝えられたところによれば「われわれは太平洋の敵領海内2,400kmの地域で思いのまま作戦活動ができる」ところまできていた。そして「戦艦・空母からなる機動艦隊の積極攻撃はまったく日本海軍の妨害を受けていない」のだった。

1944年5月14日付のニューヨーク・タイムズの見出しは、アメリカが「太平洋の制海権」を握ったことを伝えていた。1944年8月までに、戦闘はほとんど終わり、あとは「掃討作戦」を残すだけだった。フィッチ提督によれば「いままさに攻撃を開始しようとしている艦船、航空機、新旧合わせた各種武器の大規模展開にくらべたら、過去8ヶ月にわたって日本軍に鉄槌を加えてきたタスク・フォース(機動艦隊)58は夏の微風程度のもの」だった。



1944年8月までに、米軍は何回か日本本土の目標を爆撃している。さらに12月にかけて、週に4、5回、定期的に本土爆撃に出動した。

1945年3月21日の記者会見で、ジョージ ・C・ケニー中将は、「9月1日以来、日本空軍は1万機の飛行機を失った」ことを明らかにし、「日本空軍は壊滅した。もはや脅威ではない」と語った。この会見のさい、日本列島上空に「危険な迎撃態勢」が展開されているか、という質問が報道検閲官の注意を受けたが、将軍はこれを無視し「日本軍はもはや脅威ではないだろう」といいきった。そして、仮にわれわれが日本に飛行機を与えても、日本にはそれを操縦できるパイロットも、維持点検できる整備兵もいない、とつけ加えた。

「日本の優秀な整備兵たちは遠くラバウル、ブーゲンビル、ウェーク、ニューギニアの沼地にいる。日本が彼らを連れて帰ることは不可能だ。なぜなら、船を送っても、うちの若者たちが出ていって、沈めてしまうからだ」

ケニー将軍はまた、1月9日のルソン進攻開始以来、わが軍は敵機にまったく悩まされていないと語った。



このように、日本の攻撃力の壊滅がはっきりしているにもかかわらず、アメリカは1945年3月、東京に対して焼夷弾の絨毯爆撃を開始した。

そして7月までに、日本の空・海軍力は、ルメイ将軍が「敵の戦争指導者と彼らの防衛能力を辱めるジェスチャーとして」日本の主要11都市に爆撃予告のビラを撒くところまで、インポテンツ(機能不能)にされていた。ビラは「2、3日以内に」これら全都市が爆撃されることを予告したもので、同将軍は「よく知られたアメリカの人道主義に注意を喚起し、市民に町から逃げるよう呼びかけた。

同じ7月、ハルゼー提督は艦砲の射程内まで艦隊を海岸に近づけ、「抵抗なき猛撃」を始めた。3月1日以降、日本の軍事行動は米軍の本土上陸を遅らせようと無駄な努力を重ねることでしかなかった。



1945年フィリピン奪回作戦に関する公式報告は次のように述べている。

…日本軍はこの地域に展開させていた全部隊と補給物資のすべて、それに中国、満州から派遣した三・五師団を失った。フィリピン作戦全体では彼らは9,000機の飛行機を失った。1945年3月1日、日本軍は本土以外の地上軍には補給物資を送らないことを決定した。引き延ばし作戦は別にして、日本は本土防衛に全力を傾注せざるをえない状態であった。

同報告はさらに、1945年3月段階での日本の危機的状況を次のように概括している。

…日本本土に対する直接的な大規模爆撃までに、日本軍はカミカゼ攻撃隊だけになっていた。艦隊は沈められるか、無力化されていた。輸送船団の多くが失われ、地上軍の大半が孤立していた。そして経済は窒息し始めていた。

海軍は4月までに、日本の主要都市の「海峡と港湾に機雷を敷設する大規模計画」を作成していた。まさに全面封鎖だった。日本の侵略的戦争機関は完全に無力化された。



3月の東京爆撃以後、米軍は日本軍相手ではなく、主に「一般市民」を相手に戦争をしていた。

ニューヨーク・タイムズの軍事専門記者、W・H・ローレンスは1945年8月14日、グアム発の記事の中で、3月9日(日本時間、10日未明)の東京爆撃はわれわれの戦争の新局面であり、「大きな賭け」というべきものだ、と書いている。ローレンス記者は「ルメイ将軍は先例のない低空まで飛行機を送り込もうとしていた…これは危険な作戦であり、ドイツ相手なら自殺行為だ。アメリカ人の心情からしても、ギャンブルである。大都市を焼き払い、市民を殺戮するために全力をあげるというのは、初めてのことだからだ」と作戦の危険性を指摘している。

つまり、この一種の恐怖戦争に対してアメリカ世論が否定的反応を示すかもしれないところにギャンブル性がある、とみたのだった。軍指導部は、ドイツがチェコスロバキアのリディッツェ(プラハ近郊の村。1942年、ナチ高官暗殺の報復攻撃を受け壊滅した)を破壊し、イタリアがスペインのゲルニカを破壊したときの、私たちの強い反応を覚えているだろうから、それよりもっと恐ろしい政策を国民が支持するかどうか、確信がもてなかったのではないか、というわけだ。



ところが、アメリカ国民は何の抗議もせずに、すんなり大爆撃を受け入れた。この爆撃でも、その後の64都市に対する焼夷弾爆撃でも、都市全域が目標だった。ローレンス記者が伝えたところによると、この焦土作戦によって「日本の都市工業地域158平方マイルが焼かれ、推定850万人の市民が家を失うか、死亡した」。

3月10日の爆撃について、ニューヨーク・タイムズの特派員はこう書いている。

「東京の中心部はなくなった。つい24時間前、大小さまざまな工場、住宅が建っていた首都の中心部15平方マイルが灰とくすぶりつづける瓦礫に覆われている。…優先攻撃目標から外されたのは、高級住宅地のある周辺の丘陵地隊ぐらいだった」

また5月29日の横浜爆撃では「市民は群れをなして逃げ惑ったが、…安全な場所はなかった。町全体が目標だった」。紙と木でできた日本独特の建造物が焼夷弾の火つけ木の役割を果たし、そのために日本の全都市で多くの人命と財産が失われていった。横浜爆撃を伝えた特派員は「高級住宅地は現代的建築だったから、いくぶんは火の回りは遅かったが、一般の住宅地は昔ながらの木と紙の家屋だった」とコメントしている。



8月3日、グアムから記事を送ったW・H・ローレンスは、こうした現状に疑問を呈している。同記者は、陸海空三軍の間に対抗意識がなければ、もっと手ひどく、もっと早く日本を倒すことができるだろうに、と首をかしげるのだ。

信じられないような一ヶ月だった。ウィリアム・F・ハルゼー提督が率いる艦隊…これだけの機動力が1ヶ所に集められたのは太平洋戦史上初めてという最強の艦隊が、7月初めから日本列島沿岸を遊弋し、艦載機を発進させている。…一連の出撃で日本海軍は無に帰し、敵は戦闘機数百機を失った。ときおり戦艦、巡洋艦、駆逐艦を十分接近させて、工場施設に艦砲射撃を加えている。その間、この大艦隊は…「大攻勢」の名に値する反撃を受けることがなかった。われわれにすれば、撃墜すべき敵の機影が空中にあまりにも少なすぎるのが悲劇だった。

この期間、マリアナを基地とするB29も大活躍していた。われわれは、爆撃する都市を事前に予告して出撃するところまできている。それでも予期したほどに反撃が強まる訳でもなく、予告どおり出撃し爆撃できた。7月の一ヶ月間だけで、当地から出撃したB29は約4万トンの爆弾を39の主要工業地帯と13の工場に投下した。

この作戦で私たちが失ったのは飛行機11機だった。ローレンス記者はこれに一応満足しながらも、陸海空三軍の攻撃力が一本にまとまっていたら、結果はもっと良かったろうに、と嘆くのだ。



8月6日、同記者は別の記事で次のように書いている。

空軍が行なった空の大要塞作戦の戦果は、史上最大、圧倒的なものだった。あらゆる戦争の中でも最も激しい今度の戦争の、その中でも前代未聞といえる破壊を空軍は成し遂げつつある。しかも、わが方には人的、物的損失がほとんどない。この9日間に、B291,000機を3班に分けた大編成部隊が、敵本土の14の主要工業施設と3つの主要石油貯蔵施設に1万4,000トンの焼夷弾と破壊用爆弾を投下した。

日本側はこれら全都市の破壊を事前に通告されていたにもかかわらず、3回の出撃でわれわれがこうむった損害といえば、2機の爆撃機が行方不明になっただけである。…決死の敵に対して、これほど小さい損害で、これほど恐ろしい破壊が行われたことは戦史上例がない。この大爆撃作戦の遂行者たちは、自分たちの爆撃の正確さと効率の良さ、帝国の都市防衛に立ち上がれない日本空軍の無力さに驚いている。日本の対空砲火は、焦土作戦を展開している空の艦隊にとって、大きな妨げになっていないのである。



前の記事で「都市全域が爆撃目標である」と伝えたローレンス記者が、爆撃の正確さを口にするのは皮肉である。なぜ日本空軍が迎撃に飛び立たないのかという疑問に対しては、「日本の優秀なパイロットはほとんどが戦死した」という1945年6月7日の戦時情報部(OWI)報告が答えている。これに対して、戦争が終わった段階で、アメリカには海軍のパイロットと海兵隊員だけで4万7,000人もいた。

悪いことは、なるべく良くみせたいものだ。それにしても、太平洋における戦闘の推移を新聞報道で追ってみると、「平和愛好国民」たるアメリカ人が大喜びで敵を追っ駆けていたかのようである。わが特派員たちは「いい猟」とか「獲物」とか「マリアナの七面鳥射ち」などと書いていた。彼らは戦時記事にスポーツ用語をつかう、イギリス人の悪い癖に安易にはまりこんでいた。

このように、いつも私たちが使っていた言葉で表現するなら、7月から始まった一般市民に対する焼夷弾爆撃は「動かないアヒル射ち」だった。























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